山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

norito

 ここのところ、言葉のもつ “ 強制力 ” というか “ 呪詞としての強さ ” というか、それらについて考える機会が多かった。

 

Twitter① 神かよ

 

Twitter② 言葉は突き詰めると呪い

 

Twitter③ バーで名前を

 

 

 特に、人の名前を呼ぶという行為を私がどれだけ重く捉えているのか、また、名前を呼ばれることによる自分の心の動かされ方について、考えていた。

 ブログの副題を「ごくごく個人的な事情」としている通り、私の経験に基づいてあくまでも半径を小さく、感じたこと・考えたことをまとめておきたい。

 

 

【1】

 私の下の名前を呼ぶ人は、両親を除くとほとんどいない。大人になるとそんなものかな、とも思っていたが、学生時代の友人やら、職場に同じ苗字が複数人いて区別のためやら、たまに会う親戚やら、意外と名前で呼ばれる機会はあるらしいぞ、と気が付いた。

 ただ私は、学生時代のあだ名も苗字由来のものだし、職場に同じ苗字の人はいないし、たまに会う親戚は鳥の指でもお釣りが出てしまうくらいに少ない。

 

 

【2】

 随分と長く付き合い結婚の話もしていた昔の恋人の、名前を呼んだことがない。苗字も、下の名前も。

 彼とは本名を用いないコミュニティで出会ったが、互いの名前を知らなかったわけでは、決してない。LINEの登録は二人とも本名だったし、私の誕生日には名前の漢字四文字をもじった短歌が書かれたメッセージカードがプレゼントに添えられていたこともあった。

 恋人になってすぐの頃に「どう呼ばれたい?」と尋ねたとき、「どうとも呼ばれたくない。私もあなたをどうとも呼びたくない。」と返ってきたのが、そうなったきっかけだったと思う。

 そうか、そういう関係性も存在し得るのか、と度肝を抜かれた。後々になって彼に聞くと、ただ恥ずかしかったから、というのが理由だと話してはいたが、それが本当かどうかは分からない。

 それ以前に付き合ったことのある人たちからは名前で呼ばれていたし、呼ばれたいと相手が望む名で呼んでいた。そこに疑問を抱く余地はなかった。

 

 二人とも友人が多いタイプではなく、極端に閉じた世界の中を巡り漂うような恋愛だったので(恋愛とは元々そういう性質のものなのかもしれないが)、名前を呼ばずとも日常的には十分に事足りた。

 ただ、両親に結婚を考えている相手がいると紹介した際に、冷やかし半分に「お互いをなんて呼んでいるの?」と聞かれて、返事に窮したことはあった。まあまあ照れちゃって~とその場は流れたが、二人称に「あなた」しか選択肢が無いのは不便なのかもしれない、とそこで初めて思ったのを覚えている。

 

 

【3】

 だからこそ、誰かの下の名前を呼ぶ、誰かに下の名前を呼ばれる、ということにまったく慣れていない。

 そもそも、苗字と比較したとき、これは私の名前だ!と胸を張って言えるほど、自分に馴染んでいないような気がする。

 ありふれたとは言わないまでも、同世代ではそんなに珍しくない名前。いわゆる女の名前。母音がすべて “あ“ の名前。音は父が決め、漢字は占い師だった大叔父が選んだらしい名前。両親の願いがこもった名前。

 

 誰かを「苗字 + さん」ではない固有の呼び方で呼ぶのに、異様に気を遣ってしまう。

 誰かに下の名前を呼ばれると、そう呼ばれたという事実に、必要以上に関係性の深さを求めてしまう。

 

 よって私の場合、名前は呪詞になり得る。すなわち、関係性に縛り付ける単語。

 

 

 

 

 “ 呪詞 ” という単語をさも当たり前かのように使ったけれど、これは折口信夫が用いる語彙のよう。

 折口信夫『呪詞および祝詞』 青空文庫でも読める。