山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

スカベンジャーを飼い慣らす

“好きな人間と恋人関係である” “付き合っているという状態にある” と言い切れないことによって、とてつもなく不安になっている。

そういう内容を言葉にしていないのが良い、という価値観があるのは分かっているし、言葉にしなくても良い人間だと認識されているからこそ好かれているのではないかとも思えるし、何なら過去を振り返ってみてもそういう言葉が無いまま何年もお互いを恋人同士だと認識していた関係性はあった(その関係も結局は「別れてくれ」とこの上なく分かりやすい言葉で終わったが)。

 

今の私の状態が、恋愛至上主義と揶揄されるものであろうことは重々承知している。

相手が介在しなくても日常を楽しめる人間の方が魅力的だ、とは散々自分に言い聞かせてきたし、今も言い聞かせている。

それでもそう振る舞えない自分が、私が好きになるような相手にとっては詰まらない存在だということも理解している。

言葉にしなくても関係が成り立つことを大切だと考える相手しか好きになれない、わざと嫌な言い方をすると、言葉にすることの重要性を共有できない相手としか恋愛できないのは、過去の自分の言動の結果だということも、弁えている。

なんなら、この内容を直接相手に伝えれば、私が望む方向なのかどうかは置いておいて、前進することは間違いない。それができないのは、偏に私が臆病であるということに尽きる。

そもそも、こういった内容をネット上に文章として公開すること自体がナンセンスだということも分かっている、分かってはいる。

 

いやいやいやいや、話に具体性を持たせるといけない。

身の回りのありとあらゆる人と物とを、煙に巻いて生きていきたい。

一日に数回だけ澄んだ真水で喉を潤し、口さみしくなれば一匙だけ蜂蜜を掬い舐める。生々しい恋愛なんか、ましてや繁殖目的以外の性行為なんてもってのほか。

 

もしくは「さみしいな♡」と気軽に連絡できる可愛げのある性格になりたい。

そうすれば、透明なものを食むことで自らを希釈しようと試みないでも済むようになる、きっと。

楽しくて気持ち良くて、何も考えないでいられることだけが正しいことと信じきっていられる。

 

なぜ透明になりたいのか、と考えてみれば、他人に迷惑を掛けたくないというのが一番の理由であり、誰にも迷惑を掛けずに過ごしているという自信を持つことさえできれば、可愛げしかない性格に生まれ変わらなくても、楽しんで暮らしていけるようになるのだと思う。

ここでの“迷惑”は、よっぽどの変革が起きない限りは消えることが叶わない性質のものなので、どうにかして自分を変えた方が楽になれる。

 

 

ぜんぶ、全部、分かってはいる。

楽しく生きるための方法も、自分がどこで躓いているのかも、これからどうやって暮らしてゆけば良いのかも、具体的にはっきりと頭の中に存在する。

けれど、やりたくない。

 

 

 

*****

 

 

 

先日、普段よく聞くミュージシャンがアルバム発売記念イベントを開くということを、開催当日の昼に知った。

これ幸いと、プレイヤーも持っていないのに初回限定版のCDを会場で購入し、ミニライブへの参加券と目の前で歌詞カードにサインを書いてもらう権利を得ることができた。

 

サイン待ちの列に並んでいる他のファンを眺めていると、書いてもらっている僅かな時間、何も話さずにミュージシャンの手元を見つめお礼を述べるだけの人もいれば、まくし立てるようにあれこれ話してスタッフに制止されている人もいた。

私はどう振舞おうか、と暑さでぼおっとした頭で考えながら待っていると、あっという間に私の番が回ってきた。

 

こんなにも美しい人からあんなにも美しい呪いが生み出されているのだな、とありふれた詰まらない感想を抱きながら、「応援しています」との一言が咄嗟に口から出てきていた。自分でも大変に驚いた。

場面としては最もふさわしい発言だったのだろうけれど、応援という気持ちがあるとは思っていなかった。いや、応援していないと言えば嘘になるが、その気持ちの有無については微塵も考えたことがなく、ただこの人の作る音楽が好きだから聞いていただけ、のつもりだった。

 

本当はその他にも少しだけ話した内容もあるのだが、それは秘密の宝物として仕舞い込んでおく。内緒だよ。

 

アイドル好きの友人からも、舞台俳優の追っかけをしている同僚からも、キャラクターグッズを買い漁っている知り合いからも、「推しは探すものでなくて出会うものだから」と言われ続けてきた。

けれども、生きている人間を「推し」と呼ぶのには抵抗がある。

なんてったって、生きているからね。