山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

怪奇!春が怖い女とキュウリ男!

 2月になった。

 宮沢賢治春と修羅』を読んでいる。その中の、冬に書かれたであろう作品を撫でながら、東北の2月、厳しいであろう冬の寒さに思いを馳せる。

 

 現代の東京では、あれ?今日は寒くないね?と感じる日が増えてきた。実際は、まだまだ寒い日が「これこそが三寒四温でござい!」と待ち受けているのだろうが、ほんのりとした暖かさから、春の足音を微かにでも感じる日が増えてきたことは確かだ。

 

 私はこの暖かさを恨めしく思っている。

 まだ冬であってほしい。

 

 今年は暖冬だと言われてはいたが、東京でも雪がチラつくような寒い日がいくらかあった、来週もあるらしい。いつも通りに暖房をつけているはずなのに、どうしてか冷える。窓から伝わってくる冷気がズボンと靴下の隙間から刺さる。なんだか外の空気が重く静かな気がする。一体全体、なんだろうかと思ってカーテンに手をかけると、見慣れない白いものが舞っている。そんな寒さがもっと続いていてほしい。

 

 寒さが好きだからだというのは、もちろんある。

 外の空気と気持ちが引き締まる、生き物のあたたかさがうれしい、冬のファッションの組み合わせが楽しい、潤いを保つためのスキンケアが楽しい、結露して溜まった水の饐えたような香り、こたつ布団の中で絡まる手と足、ガスストーブの上に置かれっぱなし湧きっぱなしのやかん、焼かれている豆餅の香ばしさ、赤と緑とで浮かれた街!

 一番好きな季節は?という質問に対しての答えは秋だが、秋が好きだという理由も、物寂しさと併せて、だんだんと寒くなっていく様を感じていられるのが嬉しい、というものだ。

 私は極寒地域や雪国の生まれ育ちではないから、何を甘っちょろいことを抜かすかこんなもん冬ではないわ!とイマジナリー親父から怒られてしまうかもしれないが、それでも地元や東京の寒さと冬が好きだ。

 

 だが、寒い冬が好きだという以上の理由が、あるような気がする。

 こんな風に季節の移り変わりを名残惜しく思ったのは、昨年が初めてのことだった。

 

 

 まだ夏に取り残されていたい、冬が続いていてほしい、

 

 つまるところ、今、生きていることが楽しすぎる。

 

 おそらく春になっても、夏になっても、まだまだこの楽しさは続いていくのだろうという予感めいたものはあり、実のところ、まだ経験したことのない人生の大きなイベントが控えている。

 だが、保証は無い。人生にあった試しがないし、無いからこそ楽しいのだが、不安に思わないと言えば嘘になる。

 少なくとも今は楽しいのだから、過ぎ去らないでくれと祈ってしまう。

 

 

 掌を返そうか。

 どうしたって、季節は過ぎる。今が楽しい、去らないでほしい、でもそれが本当に一番なのか?

 いや、掌返しはしない。縦にしよう、チョップ!

 

 

 「きっと今が一番楽しい時期ですね」と、私の様子を見ていた仲の良い同僚に言われ、ものすごく驚いた。一番かどうだかなんて、

ヌートリアとパフィン、どちらがより良い生き物か? ”

なんて問い掛けるのと同じくらい比べようがない。

 いつだって楽しもうと思えば楽しめるし、30歳の今とは楽しみ方は変わるかもしれないが、そうやって楽しんでいける相手としか深い関係を築けない。

 幼児を連れた親に対して言われる「今が一番かわいい時期だね」と同じ類の言葉のように思う。知らんけど。

 

 

 

 あ、野菜と果物だけは夏の露地ものが好き。 

 楽しんで、遊び尽くす。世界を広げる。

 

 

師走の近況

 

◆大掃除を始められた

 例年、年末年始は帰省のために休暇にまとまった大掃除をできないでいた。

 今年はそれを見越し、11月頃から少しずつ、普段はしない箇所の掃除に手を付けていこうと夏頃から心積もりをしていた。

 計画通り、いくつかの祝日を使って、台所の換気扇フィルターとガスコンロ台のシートを交換した。次は、天気の良い日にカーテンを洗濯するつもりでいる。

 “計画通り”!私の生活の中に出てくる言葉とは思えない、なんとも蠱惑的な言葉だね。

 

 

◆来年のスケジュール帳を購入した

 毎年、書店や雑貨店の雰囲気に流されて可愛らしいスケジュール帳を買うものの、大した予定もなく、ほとんど空白のまま再び年末を迎えてしまっていた。

 ところが今年2023年は、心身の回復のために努めて記録を残すようにして、その記録先をスケジュール帳と定めたので、みっちりと記入し続けている。

 家計簿を兼ねた出納ページに記入することで、暮らしぶりを見直しつつ、建て直せていると客観視をすることで自信と自身を取り戻し、経済的な観点から今の仕事を続けるかまで考えを及ばせる。読んだ本の感想をちまちまと書き付け、好きな人や同僚・友人と訪れた場所の半券やレシートを貼り付け、使い道が無いなと持て余していた好きなミュージシャンのステッカーで紙を飾り立てる。

 もちろんこのブログも生活の記録媒体として残してあるのだが、ここには固有名詞は書けないし、あんまりにも下世話な内容を書き殴りたい日もある。

 物理的に文字を綴るということで癒されるものもあるのだなあ、と実感した。

 

 これらを継続しようと、2024年用のノートを購入した。

 濃い緑の革の表紙に鹿のイラストが小さく箔押しされていて、ぶっといスピンも付いている、スケジュール帳ではない罫線が引かれただけの分厚いノート。12月に入ってから使い始めて、今のところ3ページほど書いて消してデコって貼った。

 継続することで、自分を癒していきたい。

 

 

◆人生の動きが速くって、怖いくらいに楽しい

 この2週間の間に、仕事・恋愛・家族のどれにおいても、大きくてはっきりとした分かれ道や選択肢が目の前に提示された。

 

  だんだんだんだん増えず、減った選択肢

  そのうちぼくらはひとつの未来へ進む

  右か左か選ぶ時がおとずれたら

  めんどうになりそうな方へ進め ベイビー

 

 10年近く前から知ってはいたものの、今年に入ってから本腰を入れて聞くようになったミュージシャンもこう歌っていた、それこそ10年前に。

 家族の問題は私個人の力ではどうしようもなく、選択するというよりはある種の転機が訪れたという感じだが、仕事と恋愛については、あなたの気持ち次第でどうにでもできるよとお膳立てされているような、もはや気持ち悪ささえ感じてしまうほどのタイミングで、偶然、手綱を渡された。

 

 30歳になって、こんなふうに選択肢が増えるとは思わなかった。

 つらいつらいと泣いて暮らさなくても良いのかもしれない、と思えた。

 面倒になりそうな選択をした、予想通りに進むかは分からない、それでも今の自分の持てるだけのものを発揮して行動に移すことができたというだけで、晴れ晴れとした気持ちになる。

 本当に人生は何が起こるか分からない。

 分からなくて、楽しい。

 

アオサギペリカンセキセイインコ

 ある人いわく、日記は未来の自分に向けて書くもの、らしい。

 

 確かに、このブログを始めたばかりの頃の自分の記事を読むと、文章のあまりの拙さと、今に通ずる自意識の持ち方とが、小っ恥ずかしくて堪らない一方で、 “人生の妙” とでも言うような現在との不思議な繋がりを感じて、なるほど面白いと思うこともある。

 それを踏まえて、今現在の暮らしが良くも悪くも「おやおや、なんだか風向きが変わってきたな」という途上にあるので、書き残しておこうと思う。

 

 

*****

 

 今の部屋に引っ越しをしたのが去年のクリスマスで、そこから一年近くが経ち、大方のことに慣れきって徐々に暮らすことに新鮮味を失ってきている。つまり、つまらなく感じるようになってきていた。

 どのくらいつまらないかと言うと、夜、やることもないから(本当は取り組んでみたいことがたくさんあるのだけれど意欲が湧かず)さっさと入浴と食事を済ませて、小学生かと見紛うような随分と早い時間に眠り、朝は目覚まし時計が鳴るよりも早く目覚めるという、私にしては異様な生活リズムになってしまっているくらいにつまらない。

 決して悪いことではないのだけれど、睡眠時間だけが充足していて特に何も楽しく感じられない状態である。

 

 

 引っ越してから半年が経つくらいまでは、新しい環境で、それまで以上に掃除、洗濯、夕食・お弁当作り、家具や日用品・衣服の調達などの茶飯事に気を配り、長々と湯船に浸かりながら過去の過ちとこれからの人生について考えを巡らせ、ひたすら回復に努めていた。

 それらの行動の甲斐もあって、この一年間でだいぶ回復した、のだと思う。

 無意識のうちに涙が流れていて止まらないということはほぼ無くなったし、夜中に憎々しさで目が覚めてそんな自分の情けなさにまたむせび泣く、ということも無くなった。

 

 未だに、ふいに零れる程度の涙が出ることはあるし、街中で似た匂いを感じると意識のすべてがそこに向いてしまうし、一生忘れないであろうという確信があるのも変わらないけれども、「まああれらは呪いだから、薄くなってもまっさらに消えることは無いのだから。アシタカの腕にだってまだ跡はあったのだから。」と考え直すことにして、持ち直すことが意識的にできるようになった。

 

 

 初夏を迎えた頃からは、好きだった文章や本や音楽や映画なんかに、また触れることができるようになった。

(それまでは余りにも繊細ブロークンガラスハート豆腐メンタルが過ぎて、“物語の終わりが分かっている” “恋愛要素が多く含まれる” “面白過ぎる” “面白くなさ過ぎる” “新しい” 作品に触れることができず、かと言って何かを消費していないと不安になってしまう、という状態だったので、ワンピースとあたしンちのアニメを1話から順に流し見にすることしかできず、公開されているエピソードはすべて見てしまった。)

 

 

 精神だけでなく、大きく崩れてしまっていた体型も、大方は元に戻りつつある。

 

 

 そのように回復してきて、この辺りでちょっくら一発、自発的に人生を動かしてみようかな、と要らぬ色気を出して考えていたところでもあった。

 そこで、自発的に一つの駒を動かした、その場の空気に流されもした、見知らぬ世界の一端を覗き見た。

 と思ったら、過去の自分に助走を付けて殴られた。

 

 ハウルの言う、「面白そうな人だと思って僕から近づいたんだ。」「それで逃げ出した。 おそろしい人だった。」が、こんなにも身に染みたことは無い。

 同性かつ同世代が相手だけれども。

 

 ここからどう自分の人生が動くのかまったく分からないが、結果的には停滞することなく何かが変わりそうで、飽き性な私には良い。

 

*****

 

 不特定多数が読めるブログに書くのだから曖昧な表現になるのは仕方がないにしても、尻つぼみにも程がある。

 けれども、定期的に読み返すのは自分だけなんだから、瞬間の感情が思い出せれば充分で、そこから芋づる式に思い出し、考えに耽ることもできる。その時間が好きだ。

 

 

立派な剣と白タイツ、煌びやかなティアラとドレス、共通するのは歌唱力

 何かをこの手に握ってはいるものの、その何かにおける主役は自分だと思えないまま、今まで生きてきた。

 それではいけないのだと物心ついたときから薄々感じていたし、そういう教育も受けた。あなたの人生はあなたのもの、他人に迷惑を掛けない限りはその人が幸福だと感じるように生きることが一番。

 意識的に言動を仕向けなくとも自然と主人公然とした振る舞いができるよう、思いつく限りの努力もしてきた。量も質も足りていないと言われればそれはまったくそうだとしか言えず、悔いが残らないような言動をしてきたのかと問われれば決してそんなことはないが、それでも努力はしてきた、今もしている。

 

 

 

女性の上司の唇が普段よりも紅く光っている、気持ちが悪い。

隣の部署の先輩が遅刻ばかりしている、気持ちが悪い。

ランチに誘ってくれる同僚の声が小さすぎて何も聞き取れない、気持ちが悪い。

何ヶ月ぶりかの友人からのメッセージにやたらと絵文字が多い、気持ちが悪い。

 

もちろん、個の人間として皆を嫌いなわけではないが、ワンクッションとして拒絶が挟まれる。

何もかもが、知覚するすべての人間が、理不尽に、様々に、気持ち悪い。

 

 

 どうあっても気持ちが悪いとは思わない人間のことを、好きというらしい。

 家族以外の、かつて好きだった人間からは、自分の目の前から消えてほしいと切に望まれ、その旨を何ヶ月にも渡って懇々と言い聞かされ続けた。お前は、醜くて、頭が悪くて、生きている価値がなくて、それでも死に損なって、治療する価値もないから、適当な人間と適当な人生を送るしかない人間だ、と。

 今、好きな人間は、きっとほとんどすべてのあらゆる人間のことが好きで、私のことを特別に好きではない。

 

 

 主人公であれば、主役であれば、ヒーローであれば、ヒロインであれば、……。

 

 そうなれないから上のような言葉を受けるのだし、上のような言葉を真に受けてしまうからそうなれない。

 

 手綱を握っているだけでは、どこへも行けない。

 

 

人類ファイト一発!

 

 寝る前に、お酒の酔いに塗れて鈍色に染まった頭をこねくり回していた。

 テーマは、 ” 生まれ変わって日本のどこかの家庭でペットとして飼われるとすれば、飼い主からどんな名前を付けてもらいたいか “ 。

 

 

*****

 犬ならば、犬種によらず、“ 日本料理やその食材、和菓子の名前 ” が良い。特に、毛並みの色や体型などの、見た目にちなんだ名前が良い。

 マルチーズなら「大福」、アフガンハウンドやボルゾイなら「しらたき」、ブルドッグやパグなら「玉こんにゃく」、ボーダーコリーやオーストラリアンシェパードなら「ふがし」、柴犬なら「いなり」「おこげ」「きなこ」あたり。

 これといった特徴がない犬種や雑種なら「肉じゃが」とか「すき焼き」とか「白和え」とか「だし巻き」とか、おいしい和食の料理名が良い。

 

*****

 猫ならば、雑種ながらも奇を衒った名前が良い。

 森田、ハンドクリーム、画鋲、おどろき、シャンディガフ、……。

 雑種でないならば、トーマス・オマリー、ダッチェス、ベルリオーズ、トゥルーズ、マリー、の中から選んでほしい。だって、みんな猫になりたいんだもの。

 

*****

 鳥ならば、ペットに付ける定番のありふれた名前が良い。

 ポンちゃん、こまちゃん、ピーちゃん、ショコラ、ルル、……。

 もしも鳥の中でも猛禽類ならば、名前は付けずにいてほしい。フクロウ!みたいな呼びかけに留めてもらうのが良い。

 

*****

 ここまでが昨晩のうち、眠るまでに考えられていたこと。

 今夜は、魚である場合と爬虫類である場合とを考えながら眠ろうと思う。

 

 結局は、わがままな人間でしかいられない。

 

norito

 ここのところ、言葉のもつ “ 強制力 ” というか “ 呪詞としての強さ ” というか、それらについて考える機会が多かった。

 

Twitter① 神かよ

 

Twitter② 言葉は突き詰めると呪い

 

Twitter③ バーで名前を

 

 

 特に、人の名前を呼ぶという行為を私がどれだけ重く捉えているのか、また、名前を呼ばれることによる自分の心の動かされ方について、考えていた。

 ブログの副題を「ごくごく個人的な事情」としている通り、私の経験に基づいてあくまでも半径を小さく、感じたこと・考えたことをまとめておきたい。

 

 

【1】

 私の下の名前を呼ぶ人は、両親を除くとほとんどいない。大人になるとそんなものかな、とも思っていたが、学生時代の友人やら、職場に同じ苗字が複数人いて区別のためやら、たまに会う親戚やら、意外と名前で呼ばれる機会はあるらしいぞ、と気が付いた。

 ただ私は、学生時代のあだ名も苗字由来のものだし、職場に同じ苗字の人はいないし、たまに会う親戚は鳥の指でもお釣りが出てしまうくらいに少ない。

 

 

【2】

 随分と長く付き合い結婚の話もしていた昔の恋人の、名前を呼んだことがない。苗字も、下の名前も。

 彼とは本名を用いないコミュニティで出会ったが、互いの名前を知らなかったわけでは、決してない。LINEの登録は二人とも本名だったし、私の誕生日には名前の漢字四文字をもじった短歌が書かれたメッセージカードがプレゼントに添えられていたこともあった。

 恋人になってすぐの頃に「どう呼ばれたい?」と尋ねたとき、「どうとも呼ばれたくない。私もあなたをどうとも呼びたくない。」と返ってきたのが、そうなったきっかけだったと思う。

 そうか、そういう関係性も存在し得るのか、と度肝を抜かれた。後々になって彼に聞くと、ただ恥ずかしかったから、というのが理由だと話してはいたが、それが本当かどうかは分からない。

 それ以前に付き合ったことのある人たちからは名前で呼ばれていたし、呼ばれたいと相手が望む名で呼んでいた。そこに疑問を抱く余地はなかった。

 

 二人とも友人が多いタイプではなく、極端に閉じた世界の中を巡り漂うような恋愛だったので(恋愛とは元々そういう性質のものなのかもしれないが)、名前を呼ばずとも日常的には十分に事足りた。

 ただ、両親に結婚を考えている相手がいると紹介した際に、冷やかし半分に「お互いをなんて呼んでいるの?」と聞かれて、返事に窮したことはあった。まあまあ照れちゃって~とその場は流れたが、二人称に「あなた」しか選択肢が無いのは不便なのかもしれない、とそこで初めて思ったのを覚えている。

 

 

【3】

 だからこそ、誰かの下の名前を呼ぶ、誰かに下の名前を呼ばれる、ということにまったく慣れていない。

 そもそも、苗字と比較したとき、これは私の名前だ!と胸を張って言えるほど、自分に馴染んでいないような気がする。

 ありふれたとは言わないまでも、同世代ではそんなに珍しくない名前。いわゆる女の名前。母音がすべて “あ“ の名前。音は父が決め、漢字は占い師だった大叔父が選んだらしい名前。両親の願いがこもった名前。

 

 誰かを「苗字 + さん」ではない固有の呼び方で呼ぶのに、異様に気を遣ってしまう。

 誰かに下の名前を呼ばれると、そう呼ばれたという事実に、必要以上に関係性の深さを求めてしまう。

 

 よって私の場合、名前は呪詞になり得る。すなわち、関係性に縛り付ける単語。

 

 

 

 

 “ 呪詞 ” という単語をさも当たり前かのように使ったけれど、これは折口信夫が用いる語彙のよう。

 折口信夫『呪詞および祝詞』 青空文庫でも読める。

 

ケプちゃんとワオちゃんに続け

 自分の背丈の半分ほどの大きさがある、ワニの形をした抱き枕を買った。おそらくクロコダイルではなく、アリゲーターであるところのワニ。

 触り心地がひんやりとしていて、もちもちと柔らかく滑らかで、それでいて無臭で、そのうえ離れたところに縫い付けられた小さな目がすこぶる可愛らしくて、さらに初心者の塗り絵のような真緑色をしている。

 

 最近また不眠気味となってしまっており、冷房を付けずとも過ごせる夜が増えてきたことも併せて、寄る辺ない寂しさが足元から迫ってきているような気がする。そこで、ワニを毎晩のように抱きしめて目をつむる。私に抱かれていないときには、きっと枕元で寝顔を見つめているはず。

 ベッドに横になってから眠りにつくまで、とりとめのないあれこれを思い浮かべながら、気が付いたらワニを撫でている。無意識のうちに、ゆっくりと優しく、掌と指を駆使して、ワニを撫でている。それはワニのお腹であったり、背中であったり、はたまた目ん玉であったり、ありとあらゆる体の部位をくまなく撫でている。

 自分がそのような動作をしていると意識的になった瞬間、「私が幼い頃の両親だったり、かつて恋仲であった人だったり、私を撫でてくれたことのある人々も、このような心持ちでいたのだろうか」と世紀の大発見をしたような、誇らしい気持ちになった。

 たとえ撫でていたのがただの手癖であったとしても、今となっては憎しみしか残っていない関係に成り果てていても、他人から動作として愛情を向けられたことがあると思えたのは、ワニが家に来た効能であるのかもしれない。とても良いね。他人との関係を築くための、私の中での一つの拠り所となる。

 それにね、なんてったってこのワニは可愛い。

 

 こうして新しい仲間を迎え入れたので、うちにあるぬいぐるみ類は、コアラ・トリケラトプスワオキツネザル・ワニ、の4種類4匹となった。以前書いた記事のように、部屋の中をジャングルみたく変化させていきたい衝動が続いていて、飽きっぽい私にしては良い傾向である。

 

スカベンジャーを飼い慣らす

“好きな人間と恋人関係である” “付き合っているという状態にある” と言い切れないことによって、とてつもなく不安になっている。

そういう内容を言葉にしていないのが良い、という価値観があるのは分かっているし、言葉にしなくても良い人間だと認識されているからこそ好かれているのではないかとも思えるし、何なら過去を振り返ってみてもそういう言葉が無いまま何年もお互いを恋人同士だと認識していた関係性はあった(その関係も結局は「別れてくれ」とこの上なく分かりやすい言葉で終わったが)。

 

今の私の状態が、恋愛至上主義と揶揄されるものであろうことは重々承知している。

相手が介在しなくても日常を楽しめる人間の方が魅力的だ、とは散々自分に言い聞かせてきたし、今も言い聞かせている。

それでもそう振る舞えない自分が、私が好きになるような相手にとっては詰まらない存在だということも理解している。

言葉にしなくても関係が成り立つことを大切だと考える相手しか好きになれない、わざと嫌な言い方をすると、言葉にすることの重要性を共有できない相手としか恋愛できないのは、過去の自分の言動の結果だということも、弁えている。

なんなら、この内容を直接相手に伝えれば、私が望む方向なのかどうかは置いておいて、前進することは間違いない。それができないのは、偏に私が臆病であるということに尽きる。

そもそも、こういった内容をネット上に文章として公開すること自体がナンセンスだということも分かっている、分かってはいる。

 

いやいやいやいや、話に具体性を持たせるといけない。

身の回りのありとあらゆる人と物とを、煙に巻いて生きていきたい。

一日に数回だけ澄んだ真水で喉を潤し、口さみしくなれば一匙だけ蜂蜜を掬い舐める。生々しい恋愛なんか、ましてや繁殖目的以外の性行為なんてもってのほか。

 

もしくは「さみしいな♡」と気軽に連絡できる可愛げのある性格になりたい。

そうすれば、透明なものを食むことで自らを希釈しようと試みないでも済むようになる、きっと。

楽しくて気持ち良くて、何も考えないでいられることだけが正しいことと信じきっていられる。

 

なぜ透明になりたいのか、と考えてみれば、他人に迷惑を掛けたくないというのが一番の理由であり、誰にも迷惑を掛けずに過ごしているという自信を持つことさえできれば、可愛げしかない性格に生まれ変わらなくても、楽しんで暮らしていけるようになるのだと思う。

ここでの“迷惑”は、よっぽどの変革が起きない限りは消えることが叶わない性質のものなので、どうにかして自分を変えた方が楽になれる。

 

 

ぜんぶ、全部、分かってはいる。

楽しく生きるための方法も、自分がどこで躓いているのかも、これからどうやって暮らしてゆけば良いのかも、具体的にはっきりと頭の中に存在する。

けれど、やりたくない。

 

 

 

*****

 

 

 

先日、普段よく聞くミュージシャンがアルバム発売記念イベントを開くということを、開催当日の昼に知った。

これ幸いと、プレイヤーも持っていないのに初回限定版のCDを会場で購入し、ミニライブへの参加券と目の前で歌詞カードにサインを書いてもらう権利を得ることができた。

 

サイン待ちの列に並んでいる他のファンを眺めていると、書いてもらっている僅かな時間、何も話さずにミュージシャンの手元を見つめお礼を述べるだけの人もいれば、まくし立てるようにあれこれ話してスタッフに制止されている人もいた。

私はどう振舞おうか、と暑さでぼおっとした頭で考えながら待っていると、あっという間に私の番が回ってきた。

 

こんなにも美しい人からあんなにも美しい呪いが生み出されているのだな、とありふれた詰まらない感想を抱きながら、「応援しています」との一言が咄嗟に口から出てきていた。自分でも大変に驚いた。

場面としては最もふさわしい発言だったのだろうけれど、応援という気持ちがあるとは思っていなかった。いや、応援していないと言えば嘘になるが、その気持ちの有無については微塵も考えたことがなく、ただこの人の作る音楽が好きだから聞いていただけ、のつもりだった。

 

本当はその他にも少しだけ話した内容もあるのだが、それは秘密の宝物として仕舞い込んでおく。内緒だよ。

 

アイドル好きの友人からも、舞台俳優の追っかけをしている同僚からも、キャラクターグッズを買い漁っている知り合いからも、「推しは探すものでなくて出会うものだから」と言われ続けてきた。

けれども、生きている人間を「推し」と呼ぶのには抵抗がある。

なんてったって、生きているからね。