さくらんぼの種の味
11月7日
昨日、リビングにこたつを出した。
私が購入した家具ではなく、同居する恋人が新居に持ち込んだ物だ。7月に引越をしたばかりなので、これが、この家で迎える初めての冬である。
普段は家事ひとつひとつに腰が重い恋人も(家事は完全分担制なので自分の担当分はこなすが)、そろそろこたつを出そうか、と私が口にした途端、何も言わないながらもいそいそと押し入れからこたつ布団を取り出してくる。そういうところが愛おしい。
こういうときに「決して口には出さないが」と接頭することが多いかもしれないが、私は言う、どんどん言う。照れなんかはもう捨てたつもりで、「かわいい」も「かっこいい」も「素敵だ」も「大好き」も「愛おしい」も「愛してる」も、じゃんじゃか言う。これだけは変わらないだろうと相手への気持ちを互いに確認して始めた同居だが、30年も自分をやっていると、自身が変化を求め続ける性格であるといい加減に分かってきているので、とにかく今を大切にしたくって、言う。
こたつが設置され、肩を並べて暖まる。一緒に“ 涼む ”よりも一緒に“ 暖まる ”の方が、ずっと心強く感じる。
これからはこうやって日々を過ごしていくんだな、悪くないな、白黒やセピア色の未来だけが眼前にあったが意外とオレンジや赤・ピンクにも馴染めるじゃないか、と日常を噛みしめる。味にすっかり飽きてしまうまで、もしくは味がしなくなるまで、噛んでやる。
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12月24日
仰向けで眠れていると、許された気持ちになる。
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2024年12月23日
うつ伏せや横向けでは、なぜいけないの?誰に許されるの?許された方が良いの?それを私は望んでいたの?
仰向けで眠れると、なんだか許されたような気持ちになる。
物心ついた頃から眠るのが苦手だという自覚があり、独り立ちしてからは病院にかかろうかとも何度も考えたが、踏ん切りのつかないまま何となくここまで過ごしてしまった。
寝入るのに苦労していた数年前までは、仰向けでは落ち着かず、枕の下に腕を挟んでのうつ伏せか、左側を下にして横向きでしか眠れなかった。人体の構造的には仰向けが良いらしいと朧気な知識はありつつも、どうにも寂しさが余計に募る気がして、同衾するとしないとを問わず、横向きやうつ伏せにならないと夢に迎え入れてもらえなかった。
が、ここ1年ほどでいつの間にか、ベッドに仰向けで横たわり、そのまま何も苦に思うことなく眠りに落ちることができるようになっていた。
このことに気が付き、嬉しく思うよりも先に「許された……!」と表出した。
誰に” 許された ”のか? どうして“ 許されない ”状況にあったのか? 私のどの言動が” 許されなかった ”のか? 私は“ 許されたい ”と望んでいたのか?
「許し」という文言について、最近よく考える。
「赦し」と表記する方が、私がイメージしている内容には近付いていけるのだろうとも思うが、まだ大して考えを進められていないという罪悪感があり、その表記を用いることすら躊躇われる。
宗教的な分野にも明るくないため、“ 原罪 ”から紐解こうと試みても上手くいかない。
それでも「許されたい」という思いが私の中に少なくはない質量を持って確実に存在し、ここ1年ほどの間に「許された」と感じる場面がいくつもある。
「過去の自分に許されたのだ」と述べてお終いにしてしまうのは簡単だが、それではもったいない。
噛んで、咀嚼して、味わい尽くして、暮らしていく。
漂う、浮遊する、揺蕩う、蕩ける
ここのところ数ヶ月、頭の中のモヤモヤを、うまく言葉にして表することができないでいる。
とは言え、毎日面白おかしく楽しく転げまわって、さらには踊り狂ってまで暮らせてはいるので自分のことを心配はしていないが、今までとは何か様子が違うぞということは心に留めておきたい。
そのため、書きかけては消し、を無数に繰り返していた頭の中の文言を、心に留めるための下書きとしてブログ上にも留めておく。
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・好ましい相手に人生ごとめちゃくちゃに壊されたいという欲求
・幼い頃の家庭環境がその後の人間関係のすべてに影響を及ぼすという言説、への嫌悪感
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「強い女になりたい」というフレーズが、このところ数ヶ月にわたって、頭から離れない。“強い”とは、具体的にどのようなものなのかを考えてはいるが、なかなか考えがまとまらないので、書き綴ることで少しでも歩みを進めておきたい。
私がどこに強弱を感じているのか、男女の違いがその強弱に影響をもたらすのか、を考えるために、「強い男」「弱い女」「弱い男」、というフレーズを頭の中で描いてみた。
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“私”という部屋がある。開けっぴろげな性格なので、すぐ、その中に相手を招き入れる。
部屋に入れる相手のことが好きであることが前提なので、できる限り寛いで過ごしてほしくって、ふかふかのソファーに腰掛けるよう勧めたり、お茶や軽いカクテルやクッキーやお煎餅やチョコレートを出したり、あれやこれやと世話を焼く。これは恋愛の相手に限った話ではなく、友人でも同僚でも家族でも同じ。
室内でじっとしているのに耐えられず暴れ出してしまう人もいれば、もてなされることに慣れきってしまって当たり前のように享受した上に私の対応が少しでも遅れれば烈火のごとく怒りだす人も、干渉を拒否して石かと見紛うほどに押し黙ってしまう人もいる。
かと思えば、閉じ込められていることにも一方的な歓待を受けていることにもじっと座っているだけであることにも、苦痛である様子がまったく無い。
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以上です。
怪奇!春が怖い女とキュウリ男!
2月になった。
宮沢賢治『春と修羅』を読んでいる。その中の、冬に書かれたであろう作品を撫でながら、東北の2月、厳しいであろう冬の寒さに思いを馳せる。
現代の東京では、あれ?今日は寒くないね?と感じる日が増えてきた。実際は、まだまだ寒い日が「これこそが三寒四温でござい!」と待ち受けているのだろうが、ほんのりとした暖かさから、春の足音を微かにでも感じる日が増えてきたことは確かだ。
私はこの暖かさを恨めしく思っている。
まだ冬であってほしい。
今年は暖冬だと言われてはいたが、東京でも雪がチラつくような寒い日がいくらかあった、来週もあるらしい。いつも通りに暖房をつけているはずなのに、どうしてか冷える。窓から伝わってくる冷気がズボンと靴下の隙間から刺さる。なんだか外の空気が重く静かな気がする。一体全体、なんだろうかと思ってカーテンに手をかけると、見慣れない白いものが舞っている。そんな寒さがもっと続いていてほしい。
寒さが好きだからだというのは、もちろんある。
外の空気と気持ちが引き締まる、生き物のあたたかさがうれしい、冬のファッションの組み合わせが楽しい、潤いを保つためのスキンケアが楽しい、結露して溜まった水の饐えたような香り、こたつ布団の中で絡まる手と足、ガスストーブの上に置かれっぱなし湧きっぱなしのやかん、焼かれている豆餅の香ばしさ、赤と緑とで浮かれた街!
一番好きな季節は?という質問に対しての答えは秋だが、秋が好きだという理由も、物寂しさと併せて、だんだんと寒くなっていく様を感じていられるのが嬉しい、というものだ。
私は極寒地域や雪国の生まれ育ちではないから、何を甘っちょろいことを抜かすかこんなもん冬ではないわ!とイマジナリー親父から怒られてしまうかもしれないが、それでも地元や東京の寒さと冬が好きだ。
だが、寒い冬が好きだという以上の理由が、あるような気がする。
こんな風に季節の移り変わりを名残惜しく思ったのは、昨年が初めてのことだった。
今年だけは夏にしがみついていたい
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2023年8月30日
まだ夏に取り残されていたい、冬が続いていてほしい、
つまるところ、今、生きていることが楽しすぎる。
おそらく春になっても、夏になっても、まだまだこの楽しさは続いていくのだろうという予感めいたものはあり、実のところ、まだ経験したことのない人生の大きなイベントが控えている。
だが、保証は無い。人生にあった試しがないし、無いからこそ楽しいのだが、不安に思わないと言えば嘘になる。
少なくとも今は楽しいのだから、過ぎ去らないでくれと祈ってしまう。
掌を返そうか。
どうしたって、季節は過ぎる。今が楽しい、去らないでほしい、でもそれが本当に一番なのか?
いや、掌返しはしない。縦にしよう、チョップ!
「きっと今が一番楽しい時期ですね」と、私の様子を見ていた仲の良い同僚に言われ、ものすごく驚いた。一番かどうだかなんて、
“ ヌートリアとパフィン、どちらがより良い生き物か? ”
なんて問い掛けるのと同じくらい比べようがない。
いつだって楽しもうと思えば楽しめるし、30歳の今とは楽しみ方は変わるかもしれないが、そうやって楽しんでいける相手としか深い関係を築けない。
幼児を連れた親に対して言われる「今が一番かわいい時期だね」と同じ類の言葉のように思う。知らんけど。
あ、野菜と果物だけは夏の露地ものが好き。
楽しんで、遊び尽くす。世界を広げる。
師走の近況
◆大掃除を始められた
例年、年末年始は帰省のために休暇にまとまった大掃除をできないでいた。
今年はそれを見越し、11月頃から少しずつ、普段はしない箇所の掃除に手を付けていこうと夏頃から心積もりをしていた。
計画通り、いくつかの祝日を使って、台所の換気扇フィルターとガスコンロ台のシートを交換した。次は、天気の良い日にカーテンを洗濯するつもりでいる。
“計画通り”!私の生活の中に出てくる言葉とは思えない、なんとも蠱惑的な言葉だね。
◆来年のスケジュール帳を購入した
毎年、書店や雑貨店の雰囲気に流されて可愛らしいスケジュール帳を買うものの、大した予定もなく、ほとんど空白のまま再び年末を迎えてしまっていた。
ところが今年2023年は、心身の回復のために努めて記録を残すようにして、その記録先をスケジュール帳と定めたので、みっちりと記入し続けている。
家計簿を兼ねた出納ページに記入することで、暮らしぶりを見直しつつ、建て直せていると客観視をすることで自信と自身を取り戻し、経済的な観点から今の仕事を続けるかまで考えを及ばせる。読んだ本の感想をちまちまと書き付け、好きな人や同僚・友人と訪れた場所の半券やレシートを貼り付け、使い道が無いなと持て余していた好きなミュージシャンのステッカーで紙を飾り立てる。
もちろんこのブログも生活の記録媒体として残してあるのだが、ここには固有名詞は書けないし、あんまりにも下世話な内容を書き殴りたい日もある。
物理的に文字を綴るということで癒されるものもあるのだなあ、と実感した。
これらを継続しようと、2024年用のノートを購入した。
濃い緑の革の表紙に鹿のイラストが小さく箔押しされていて、ぶっといスピンも付いている、スケジュール帳ではない罫線が引かれただけの分厚いノート。12月に入ってから使い始めて、今のところ3ページほど書いて消してデコって貼った。
継続することで、自分を癒していきたい。
◆人生の動きが速くって、怖いくらいに楽しい
この2週間の間に、仕事・恋愛・家族のどれにおいても、大きくてはっきりとした分かれ道や選択肢が目の前に提示された。
だんだんだんだん増えず、減った選択肢
そのうちぼくらはひとつの未来へ進む
右か左か選ぶ時がおとずれたら
めんどうになりそうな方へ進め ベイビー
10年近く前から知ってはいたものの、今年に入ってから本腰を入れて聞くようになったミュージシャンもこう歌っていた、それこそ10年前に。
家族の問題は私個人の力ではどうしようもなく、選択するというよりはある種の転機が訪れたという感じだが、仕事と恋愛については、あなたの気持ち次第でどうにでもできるよとお膳立てされているような、もはや気持ち悪ささえ感じてしまうほどのタイミングで、偶然、手綱を渡された。
30歳になって、こんなふうに選択肢が増えるとは思わなかった。
つらいつらいと泣いて暮らさなくても良いのかもしれない、と思えた。
面倒になりそうな選択をした、予想通りに進むかは分からない、それでも今の自分の持てるだけのものを発揮して行動に移すことができたというだけで、晴れ晴れとした気持ちになる。
本当に人生は何が起こるか分からない。
分からなくて、楽しい。
アオサギペリカンセキセイインコ
ある人いわく、日記は未来の自分に向けて書くもの、らしい。
確かに、このブログを始めたばかりの頃の自分の記事を読むと、文章のあまりの拙さと、今に通ずる自意識の持ち方とが、小っ恥ずかしくて堪らない一方で、 “人生の妙” とでも言うような現在との不思議な繋がりを感じて、なるほど面白いと思うこともある。
それを踏まえて、今現在の暮らしが良くも悪くも「おやおや、なんだか風向きが変わってきたな」という途上にあるので、書き残しておこうと思う。
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今の部屋に引っ越しをしたのが去年のクリスマスで、そこから一年近くが経ち、大方のことに慣れきって徐々に暮らすことに新鮮味を失ってきている。つまり、つまらなく感じるようになってきていた。
どのくらいつまらないかと言うと、夜、やることもないから(本当は取り組んでみたいことがたくさんあるのだけれど意欲が湧かず)さっさと入浴と食事を済ませて、小学生かと見紛うような随分と早い時間に眠り、朝は目覚まし時計が鳴るよりも早く目覚めるという、私にしては異様な生活リズムになってしまっているくらいにつまらない。
決して悪いことではないのだけれど、睡眠時間だけが充足していて特に何も楽しく感じられない状態である。
引っ越してから半年が経つくらいまでは、新しい環境で、それまで以上に掃除、洗濯、夕食・お弁当作り、家具や日用品・衣服の調達などの茶飯事に気を配り、長々と湯船に浸かりながら過去の過ちとこれからの人生について考えを巡らせ、ひたすら回復に努めていた。
それらの行動の甲斐もあって、この一年間でだいぶ回復した、のだと思う。
無意識のうちに涙が流れていて止まらないということはほぼ無くなったし、夜中に憎々しさで目が覚めてそんな自分の情けなさにまたむせび泣く、ということも無くなった。
未だに、ふいに零れる程度の涙が出ることはあるし、街中で似た匂いを感じると意識のすべてがそこに向いてしまうし、一生忘れないであろうという確信があるのも変わらないけれども、「まああれらは呪いだから、薄くなってもまっさらに消えることは無いのだから。アシタカの腕にだってまだ跡はあったのだから。」と考え直すことにして、持ち直すことが意識的にできるようになった。
初夏を迎えた頃からは、好きだった文章や本や音楽や映画なんかに、また触れることができるようになった。
(それまでは余りにも繊細ブロークンガラスハート豆腐メンタルが過ぎて、“物語の終わりが分かっている” “恋愛要素が多く含まれる” “面白過ぎる” “面白くなさ過ぎる” “新しい” 作品に触れることができず、かと言って何かを消費していないと不安になってしまう、という状態だったので、ワンピースとあたしンちのアニメを1話から順に流し見にすることしかできず、公開されているエピソードはすべて見てしまった。)
精神だけでなく、大きく崩れてしまっていた体型も、大方は元に戻りつつある。
そのように回復してきて、この辺りでちょっくら一発、自発的に人生を動かしてみようかな、と要らぬ色気を出して考えていたところでもあった。
そこで、自発的に一つの駒を動かした、その場の空気に流されもした、見知らぬ世界の一端を覗き見た。
と思ったら、過去の自分に助走を付けて殴られた。
ハウルの言う、「面白そうな人だと思って僕から近づいたんだ。」「それで逃げ出した。 おそろしい人だった。」が、こんなにも身に染みたことは無い。
同性かつ同世代が相手だけれども。
ここからどう自分の人生が動くのかまったく分からないが、結果的には停滞することなく何かが変わりそうで、飽き性な私には良い。
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不特定多数が読めるブログに書くのだから曖昧な表現になるのは仕方がないにしても、尻つぼみにも程がある。
けれども、定期的に読み返すのは自分だけなんだから、瞬間の感情が思い出せれば充分で、そこから芋づる式に思い出し、考えに耽ることもできる。その時間が好きだ。
立派な剣と白タイツ、煌びやかなティアラとドレス、共通するのは歌唱力
何かをこの手に握ってはいるものの、その何かにおける主役は自分だと思えないまま、今まで生きてきた。
それではいけないのだと物心ついたときから薄々感じていたし、そういう教育も受けた。あなたの人生はあなたのもの、他人に迷惑を掛けない限りはその人が幸福だと感じるように生きることが一番。
意識的に言動を仕向けなくとも自然と主人公然とした振る舞いができるよう、思いつく限りの努力もしてきた。量も質も足りていないと言われればそれはまったくそうだとしか言えず、悔いが残らないような言動をしてきたのかと問われれば決してそんなことはないが、それでも努力はしてきた、今もしている。
女性の上司の唇が普段よりも紅く光っている、気持ちが悪い。
隣の部署の先輩が遅刻ばかりしている、気持ちが悪い。
ランチに誘ってくれる同僚の声が小さすぎて何も聞き取れない、気持ちが悪い。
何ヶ月ぶりかの友人からのメッセージにやたらと絵文字が多い、気持ちが悪い。
もちろん、個の人間として皆を嫌いなわけではないが、ワンクッションとして拒絶が挟まれる。
何もかもが、知覚するすべての人間が、理不尽に、様々に、気持ち悪い。
どうあっても気持ちが悪いとは思わない人間のことを、好きというらしい。
家族以外の、かつて好きだった人間からは、自分の目の前から消えてほしいと切に望まれ、その旨を何ヶ月にも渡って懇々と言い聞かされ続けた。お前は、醜くて、頭が悪くて、生きている価値がなくて、それでも死に損なって、治療する価値もないから、適当な人間と適当な人生を送るしかない人間だ、と。
今、好きな人間は、きっとほとんどすべてのあらゆる人間のことが好きで、私のことを特別に好きではない。
主人公であれば、主役であれば、ヒーローであれば、ヒロインであれば、……。
そうなれないから上のような言葉を受けるのだし、上のような言葉を真に受けてしまうからそうなれない。
手綱を握っているだけでは、どこへも行けない。
人類ファイト一発!
寝る前に、お酒の酔いに塗れて鈍色に染まった頭をこねくり回していた。
テーマは、 ” 生まれ変わって日本のどこかの家庭でペットとして飼われるとすれば、飼い主からどんな名前を付けてもらいたいか “ 。
犬を飼ったら付けたい名前、猫を飼ったら付けたい名前、鳥を飼ったら付けたい名前、魚を飼ったら付けたい名前、付けられたい名前?
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2023年10月16日
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犬ならば、犬種によらず、“ 日本料理やその食材、和菓子の名前 ” が良い。特に、毛並みの色や体型などの、見た目にちなんだ名前が良い。
マルチーズなら「大福」、アフガンハウンドやボルゾイなら「しらたき」、ブルドッグやパグなら「玉こんにゃく」、ボーダーコリーやオーストラリアンシェパードなら「ふがし」、柴犬なら「いなり」「おこげ」「きなこ」あたり。
これといった特徴がない犬種や雑種なら「肉じゃが」とか「すき焼き」とか「白和え」とか「だし巻き」とか、おいしい和食の料理名が良い。
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猫ならば、雑種ながらも奇を衒った名前が良い。
森田、ハンドクリーム、画鋲、おどろき、シャンディガフ、……。
雑種でないならば、トーマス・オマリー、ダッチェス、ベルリオーズ、トゥルーズ、マリー、の中から選んでほしい。だって、みんな猫になりたいんだもの。
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鳥ならば、ペットに付ける定番のありふれた名前が良い。
ポンちゃん、こまちゃん、ピーちゃん、ショコラ、ルル、……。
もしも鳥の中でも猛禽類ならば、名前は付けずにいてほしい。フクロウ!みたいな呼びかけに留めてもらうのが良い。
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ここまでが昨晩のうち、眠るまでに考えられていたこと。
今夜は、魚である場合と爬虫類である場合とを考えながら眠ろうと思う。
結局は、わがままな人間でしかいられない。
norito
ここのところ、言葉のもつ “ 強制力 ” というか “ 呪詞としての強さ ” というか、それらについて考える機会が多かった。
Twitter① 神かよ
今のままだと、忘れられてしまい、そこら中にありふれた悪意で少しずつ希釈されて薄くなっていってしまいそうで、消えないように名前を呼んでほしい、神かよ
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2023年9月4日
Twitter② 言葉は突き詰めると呪い
私が生きづらさを感じてしまう内因は、すべての言葉は突き詰めると呪いだと考えているからなのかもしれない
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2023年10月6日
Twitter③ バーで名前を
バーで少し仲良くなった女性に名前を聞かれて咄嗟に「名字ですか?下の名前ですか?」と聞き返してしまった。10秒ほど迷って、結局はほとんど誰にも使われない下の名前を告げ、彼女はその後も何度も私の名前を呼んでくれたけれど、私は一度も彼女の名前を口にできなかった。
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2023年10月8日
特に、人の名前を呼ぶという行為を私がどれだけ重く捉えているのか、また、名前を呼ばれることによる自分の心の動かされ方について、考えていた。
ブログの副題を「ごくごく個人的な事情」としている通り、私の経験に基づいてあくまでも半径を小さく、感じたこと・考えたことをまとめておきたい。
【1】
私の下の名前を呼ぶ人は、両親を除くとほとんどいない。大人になるとそんなものかな、とも思っていたが、学生時代の友人やら、職場に同じ苗字が複数人いて区別のためやら、たまに会う親戚やら、意外と名前で呼ばれる機会はあるらしいぞ、と気が付いた。
ただ私は、学生時代のあだ名も苗字由来のものだし、職場に同じ苗字の人はいないし、たまに会う親戚は鳥の指でもお釣りが出てしまうくらいに少ない。
【2】
随分と長く付き合い結婚の話もしていた昔の恋人の、名前を呼んだことがない。苗字も、下の名前も。
彼とは本名を用いないコミュニティで出会ったが、互いの名前を知らなかったわけでは、決してない。LINEの登録は二人とも本名だったし、私の誕生日には名前の漢字四文字をもじった短歌が書かれたメッセージカードがプレゼントに添えられていたこともあった。
恋人になってすぐの頃に「どう呼ばれたい?」と尋ねたとき、「どうとも呼ばれたくない。私もあなたをどうとも呼びたくない。」と返ってきたのが、そうなったきっかけだったと思う。
そうか、そういう関係性も存在し得るのか、と度肝を抜かれた。後々になって彼に聞くと、ただ恥ずかしかったから、というのが理由だと話してはいたが、それが本当かどうかは分からない。
それ以前に付き合ったことのある人たちからは名前で呼ばれていたし、呼ばれたいと相手が望む名で呼んでいた。そこに疑問を抱く余地はなかった。
二人とも友人が多いタイプではなく、極端に閉じた世界の中を巡り漂うような恋愛だったので(恋愛とは元々そういう性質のものなのかもしれないが)、名前を呼ばずとも日常的には十分に事足りた。
ただ、両親に結婚を考えている相手がいると紹介した際に、冷やかし半分に「お互いをなんて呼んでいるの?」と聞かれて、返事に窮したことはあった。まあまあ照れちゃって~とその場は流れたが、二人称に「あなた」しか選択肢が無いのは不便なのかもしれない、とそこで初めて思ったのを覚えている。
【3】
だからこそ、誰かの下の名前を呼ぶ、誰かに下の名前を呼ばれる、ということにまったく慣れていない。
そもそも、苗字と比較したとき、これは私の名前だ!と胸を張って言えるほど、自分に馴染んでいないような気がする。
ありふれたとは言わないまでも、同世代ではそんなに珍しくない名前。いわゆる女の名前。母音がすべて “あ“ の名前。音は父が決め、漢字は占い師だった大叔父が選んだらしい名前。両親の願いがこもった名前。
誰かを「苗字 + さん」ではない固有の呼び方で呼ぶのに、異様に気を遣ってしまう。
誰かに下の名前を呼ばれると、そう呼ばれたという事実に、必要以上に関係性の深さを求めてしまう。
よって私の場合、名前は呪詞になり得る。すなわち、関係性に縛り付ける単語。
“ 呪詞 ” という単語をさも当たり前かのように使ったけれど、これは折口信夫が用いる語彙のよう。