ある人いわく、日記は未来の自分に向けて書くもの、らしい。
確かに、このブログを始めたばかりの頃の自分の記事を読むと、文章のあまりの拙さと、今に通ずる自意識の持ち方とが、小っ恥ずかしくて堪らない一方で、 “人生の妙” とでも言うような現在との不思議な繋がりを感じて、なるほど面白いと思うこともある。
それを踏まえて、今現在の暮らしが良くも悪くも「おやおや、なんだか風向きが変わってきたな」という途上にあるので、書き残しておこうと思う。
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今の部屋に引っ越しをしたのが去年のクリスマスで、そこから一年近くが経ち、大方のことに慣れきって徐々に暮らすことに新鮮味を失ってきている。つまり、つまらなく感じるようになってきていた。
どのくらいつまらないかと言うと、夜、やることもないから(本当は取り組んでみたいことがたくさんあるのだけれど意欲が湧かず)さっさと入浴と食事を済ませて、小学生かと見紛うような随分と早い時間に眠り、朝は目覚まし時計が鳴るよりも早く目覚めるという、私にしては異様な生活リズムになってしまっているくらいにつまらない。
決して悪いことではないのだけれど、睡眠時間だけが充足していて特に何も楽しく感じられない状態である。
引っ越してから半年が経つくらいまでは、新しい環境で、それまで以上に掃除、洗濯、夕食・お弁当作り、家具や日用品・衣服の調達などの茶飯事に気を配り、長々と湯船に浸かりながら過去の過ちとこれからの人生について考えを巡らせ、ひたすら回復に努めていた。
それらの行動の甲斐もあって、この一年間でだいぶ回復した、のだと思う。
無意識のうちに涙が流れていて止まらないということはほぼ無くなったし、夜中に憎々しさで目が覚めてそんな自分の情けなさにまたむせび泣く、ということも無くなった。
未だに、ふいに零れる程度の涙が出ることはあるし、街中で似た匂いを感じると意識のすべてがそこに向いてしまうし、一生忘れないであろうという確信があるのも変わらないけれども、「まああれらは呪いだから、薄くなってもまっさらに消えることは無いのだから。アシタカの腕にだってまだ跡はあったのだから。」と考え直すことにして、持ち直すことが意識的にできるようになった。
初夏を迎えた頃からは、好きだった文章や本や音楽や映画なんかに、また触れることができるようになった。
(それまでは余りにも繊細ブロークンガラスハート豆腐メンタルが過ぎて、“物語の終わりが分かっている” “恋愛要素が多く含まれる” “面白過ぎる” “面白くなさ過ぎる” “新しい” 作品に触れることができず、かと言って何かを消費していないと不安になってしまう、という状態だったので、ワンピースとあたしンちのアニメを1話から順に流し見にすることしかできず、公開されているエピソードはすべて見てしまった。)
精神だけでなく、大きく崩れてしまっていた体型も、大方は元に戻りつつある。
そのように回復してきて、この辺りでちょっくら一発、自発的に人生を動かしてみようかな、と要らぬ色気を出して考えていたところでもあった。
そこで、自発的に一つの駒を動かした、その場の空気に流されもした、見知らぬ世界の一端を覗き見た。
と思ったら、過去の自分に助走を付けて殴られた。
ハウルの言う、「面白そうな人だと思って僕から近づいたんだ。」「それで逃げ出した。 おそろしい人だった。」が、こんなにも身に染みたことは無い。
同性かつ同世代が相手だけれども。
ここからどう自分の人生が動くのかまったく分からないが、結果的には停滞することなく何かが変わりそうで、飽き性な私には良い。
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不特定多数が読めるブログに書くのだから曖昧な表現になるのは仕方がないにしても、尻つぼみにも程がある。
けれども、定期的に読み返すのは自分だけなんだから、瞬間の感情が思い出せれば充分で、そこから芋づる式に思い出し、考えに耽ることもできる。その時間が好きだ。