山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

生身のひつじはアンドロイドスマートフォンのユーザーか?-はい、そうです

 

 ここ一ヶ月程の間に、仕事を辞めただとか新居を決めただとか、様々な環境の変化があったのだけれど、それ以上に内的に衝撃を受けたり変化したりしたことが多かった。それに伴って、私の考えていたことを忘れないために、ここに書き留めておこうと思う。

 
 
・ひねる相手は生まれるか
 
 私が新しい仕事をするにあたって遠方で一人暮らしを始めるので、母が大変に寂しがっている。対外的にはしっかりしている25歳にもなる娘にこの態度とは子離れができていないんだな、とも思うが、子として愛されているのはとても嬉しいし、母のことは人間としてかなり好きなので、仕事を辞めて時間ができてからは二人でどこかに出掛けるという機会を多く設けた
 その外出の中で、私に恋人がいるということが母に知れた。隠していた訳ではなく聞かれなかったので言わなかっただけで、彼女に話せるような後ろめたいことは何もないのだけれど、私と相手が結婚適齢期と言われる年齢ということもあって結婚や孫を意識した発言を母がよくするようになったのが、実に心苦しい。今の恋人との結婚を私は現段階であまり考えていない上、子どもが欲しいとは思わないし体質的にも妊娠は難しいのだけれど今の母の唯一の楽しみとなっていそうな話題なので避けることができずにいた。それでも子どもを産むつもりはないよ、と遠回しに言い続けていたところ、「そう…。」と悲しそうに言い、それきりその話題は持ち出さなくなった。
 愛する母に悲しい思いをさせてしまいそれはこれからも続くのだという罪悪感と、この思いは変えられないものだという予感とがごちゃ混ぜになって、心が自家製のストロベリーヨーグルトみたいになった。あれね、明治ブルガリアヨーグルトにアオハタ苺ジャムを入れてスプーンでぐるぐるしたやつ。まだらなヨーグルトは大好きだけれど、心は一色であってほしい、それが暗い色でも明るい色でも。
 子どもを産みたくはないけれども、どうせなら自分と同じ顔・性格の赤子を7人くらい産んで自分をたくさんに増やしたいな、とは思う。きっと、8人の8に埋め尽くされる世界はきっと、悪くはない。
 
 
 

・”私”と”秋”が似ているとも言いたかった

 

  以下2つは私のツイートです。

 

  これらに対するものとして、

 

  言語化するというのは個人の経験に基づく暗黙知形式知として共有できる最低限のレベルに落とし込むだけで細部は全く共有できない気がする これがさっきのツイートの正確な言語化です

 

 と頂いた。

 言語化する、というのは何かの思想を持った対人コミュニケーションの中ではたぶんおそらく蓋し大切なことで、私はそれに強く強く苦手意識を持っている。元々あまり頭が良くないのもあり、すべての物事の捉え方があやふやで、輪郭をはっきりとさせないまま自分の中に保存しているのではないかと思う。時間のあるときにそっと取り出してしげしげと眺め少し磨いて元の場所に戻す、というのを繰り返すタイプなのだと思う。

 さらに、短くは言い表しにくい概念についての自らの中で完結している造語もすごく多い。「みゆきちゃん」はこの世で一番大好きな女の子の名前だ。

 だから、いざそれらを人前で取り出そうとしたときに「えっと、これはこの人に通じる言葉だとどう言えば良いのだろう…」と逡巡してしまったり、たとえ造語でなくても、自分の思っていることをできるだけ余すところなく伝えたい、と思うあまり相手が求めている以上に一つの話題について話し過ぎてしまったりすることもある。

 ただ、これらの傾向は今のところ必ずしも悪い方に作用するというわけではなく、"余白のある言葉”が好きだという方には「けっこう上手に(そういう言葉遣いや言い回しが)できているよ」と言われたし、話す前に考え込むのを見て、誠実な態度で誠実な内容を話す人物だと私を受け取ってくれる方もいた。しかし、前者については「私が目指すはもっと素敵なものなので、この人はこんなもんなんだと妥協・納得しないでください。」、後者には「考えこんでいるからと言って必ずしも本心を話しているとは限りません、私は誠実であるのと同じくらい飽きっぽいのです、口に出したそれは考えるのに飽きてコンマ数秒で思いついた全くの虚構かもしれないのですよ。」と言わせて頂きたい。私はけっこう色々な味のする人間だと自負しております。

 話を戻せば、自分の中にあるものが全てあやふやであるがために、外部からその内容に近いものを、それが詩でも歌詞でも評論でも愛をささやく言葉でも呪詛でも、何かを与えられれば、「これは私の考えていたことだ!」と自分の中のアメーバ状のものを枠に嵌めてその形にしてしまっているんだ、と気が付いた。形を変えるときにそぎ落とされてしまったのが、件のツイートの「細部」にあたるのだと思う。「細部」の存在にすら気が付けていなかった私は愚者だ、今もたいがい、愚かな側の岸に立っている。川を渡るためにはいったい幾らかかるのだろう、六文では到底足りない。

 

 

 

 存外長くなってしまったので、残りのテーマについては次の機会に、また。

 

 

 

 2019.2.26 追記 続きを書きました。

no-koriga.hatenablog.com