山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

愚にもつかぬギ

  引っ越しも一段落つき、色々な環境も整い、新しい場所での暮らしの基盤が順調に構築されつつあります。故郷に残してきたものは様々ある、ありすぎるけれど、ここに”故郷”という言葉が登場すること自体に、自分はしばらく地元に帰るつもりがないんだな、とか、あそこは故郷と呼ぶにふさわしくお誂え向きの街であまりにも陳腐に過ぎる、とか、帰りたいあそこへ行きたいあの人に会いたい、とかグルグルしてきてしまうので、わざと目を逸らし続けている。直視できる時がいつか来るのかしら。

 

 最近、「自分の中の思いを消化する」という言葉を無意識のうちに、さらには頻繁に使ってしまう。本当に無意識で、何か印象的な出来事があってそれを幾日も引きずっているようなときには決まってこの言葉が脳裏に浮かび、いつの間にかTwitterで発露している。何しろ友人が少ないもので。いつもお目汚し頂き、ありがとうございます。

 消化するということは、受け取った何かを自分の力で分解し自らの血肉としエネルギーとしていく、ということなのだろうけれど、今までの、と言っても自我が芽生え始めたのがごく最近なので、ここ一年ほどの中で、これは確実に消化できた、と言えるものに心当たりがない。

 けれども、哀れな生き物であり続けるには、私はあまりにも擦れすぎてしまった、たくましく生きていくための術を身に付けてしまった。草を食む速度が追い付かないのならば、餓死を迎えるまでに腹を空かせた肉食獣の目の前に飛び出たり、あるいは恐る恐る虫や果物を口にしてみたり、という方法を知ってしまった。

  哀れみすらこの身に受けることはできない。あるのは軽蔑と焦燥と羨望の眼差しだけ、どれも私に直に触れてはくれない。

  

 

 思い出したように前回の続きに戻る。前回、とはこちらの記事のこと。

no-koriga.hatenablog.com

 

・等速直線運動のできるあなた

 「気が合わないな、って思うのはどんな人?」と尋ねられた。私の答えは確か「相槌の打ち方に腹が立つ人」だった。問うた本人は「ボディタッチの多い人、やたらと積極的な人、海辺でBBQをするような人、それから……」と例を挙げていたように思う。もうだいぶん前のことなので記憶が曖昧であるし、その内容に是非を唱える義理はない。

 思い返せば、この人とは気が合わないなー、となった経験がほとんどない。ほとんど、に入れてもらえない可哀そうな人は今の恋人、ああなんて可哀そうな人。なんて、冗談だけれども。どこからどこまでが真実なのかは読んでいる人が決めることなんですよ。ボディタッチの多い人も、やたらと何事にも積極的な人も、海辺でBBQしたがるような人も、すぐに中指を立てる人も、みんな分かりやすくて良いじゃない。何が好きでどうすれば喜んでくれるのか、私に見せたい面はどんなものなのか、分からせてくれる。私はもっと、複雑で繊細で深くて怖くて美しくてこちらが戸惑うような人が好きなんです。あれ、前述の人、みんなと合わない。分かりやすく馬鹿な私、自分とも気が合わないこともあるんだな。

 

・罪とは罰とは

  皆さんの言う、鬱とは?虚無とは?オタクとは?

 どれも医学的辞書的文化的背景などをそれぞれに持つ言葉であることは充分に承知しているし、言わんとすることも大方は分かるのだけれど、皆さんがあまりにも”我々に共通の免罪符である”かのごとくおっしゃるので、恐ろしくなってきた。私ったら義務教育で飛び級してしまったかしら、私の知らないテキストでも配布されたのかしら、ママのお腹の中に置いてきてしまったの、ママは私よ、あなたは誰、私は…

 ただ純粋に、前述のもの以外にも、皆さんの心の中にある言葉の定義を教えて頂きたい、という気持ちでいっぱいなのです。これは本当に混じり気のない好奇心。純度100%の気持ちを向けられたあなたは、この問いに答えるしかない。「あなたのその言葉には、どのような意味が込められているのですか?」

 ちなみに、私の言う”虚無”とは「持て余した感情を注ぐ先のないこと」です。

 

 ・水中花

 これが愛だあれが愛だたぶん愛だと騒いではいるけれど、きっとそのどれもが愛で、かつどれも愛ではなかったんだろう。

 これはただ思いついただけ、言いたかっただけの言葉です。口説き文句に使いたかったら使ってもいいよ。