山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

毎夜、健やかに溺れるために

もう何年も前、他人の家をふらふらしていた頃。

家主たちに「眠りたいのに眠れないとき、何を考えているか(あるいは、どんな風景・環境をイメージしているか)」を、寝物語として尋ねていた。

その時期の私は、自室で眠るのが下手なことに悩んでおり、すぐに穏やかな寝息を立てる仰向けの横顔が羨ましくて、自分の寝付きの参考にするためだった。

 

印象的だったのが、挙げられる中に「水」にまつわる話が多かった、ということ。

確かに自分の中にも、眠るために凪いだ心持ちになろうと試みると(ここで“凪ぐ”という言葉を使った時点で、波に海に湖に、「水」に捕らわれているが)、そのような連想をすることが多かった。しかし、当時はそのことにまったく気が付いておらず、それはそれは驚いた覚えがある。

 

具体的には、

湖面に仰向けに横たわっており、水音も立てず静かに水に沈んでいく。その湖は霧深い森の中のぽかんと開けた場所にあり、自分の他に生き物の姿は見えず、何の音もしない。

 

真っ暗な深海を漂っている。冬の重い布団や毛布に包まれているような気がして、もしかしたらそれは寝るときの体勢とリンクしているのかもしれない。音は無い。

 

掌からこんこんと水が湧き出る。初めは重力に従って垂れ流されていたものが、段々に球となり、ゆっくりと手から離れて浮いていく。無音。

 

耳元でずっと水の流れる音がする。滝や大きな川といった轟々とした音ではなく、ちょろちょろと器に注ぐときのような音。

 

頭くらいの高さで、水がフラフープのような輪になって回転する。その流れの中で金魚が泳いでいる。not リュウキン but デメキン. 赤い。

などなど。

それぞれの話を聞いた後に、真似をして何度も何度も思い出して、こすり続けて丸くなるどころかドロドロに溶け合ってしまっているので、どれが人から聞いた話でどれが元から自分の中にあった情景だったのかは、まったく分からなくなってしまった。

 

享楽としての生活、そのための快適な部屋づくり、を心掛けるようになってから、やっと睡眠にも気を遣えるようになってきており、随分と昔の話になってしまった「水」のことを思い出した。

 

 

私が眠る前に思い浮かべる内容としては他にも、

 

・庭園付き図書館の、敷地内の構造や建造物の配置

・6階建てマンション最上階2LDKの角部屋の間取り

ホグワーツの寮の談話室の内装

なんかがある。

 

だから、うとうとしている私の中にだけ、立派な図書館が3棟も鎮座しているし、別邸のマンションで暮らす恋人が2人いるし、ホグワーツには10個以上の寮がある。

 

今夜はどこへ行こうか。

 

助平なマネキン

毎日、日替わりで、自分とは違う生き物になりきって暮らしているような、自分の輪郭を掴めていないという感覚がずっとある。

 

勤務先の服装規定が厳しくないということもあって、ばっちりスーツから、ゆるゆるカジュアルまで、その日の気分にあった服装と髪型とアクセサリーとを選んでから、毎朝家を出る。寝坊なんかしてしまってまともに身支度する時間がなく、目に付いたものを取り敢えず纏って外に出た日は、なんだかしっくりこないとモヤモヤした気持ちを一日中抱えることになる。

 

クローゼットの中も、まったくもってテイストが統一されていない。

サルエルパンツ、下駄、ボディコンワンピース、ライブ会場限定バンドTシャツ、フリルたっぷりブラウス、スケスケの下着、フリルたっぷりのスケスケの下着

 

友人なんかに服装を褒められると「今日は東京のOLの振りをしているからね」「今日は流行っていない飲食店のダウナーなアルバイトだから」「モボ(モガ)になりたくて」と適当に答える。

 

みんな同じ? 取り立ててブログに書くようなことじゃない? そう、みんなと一緒で安心。

 

少し古くなったバンドTシャツをパジャマ代わりに着るのは、バンギャ道を通過したあるいは眺めた層にはあるあるだと思う。眠い目でバンドロゴを背中に、当時の恋人と乳繰り合っていたとき、「Tシャツの柄があまりにもおどろおどろしくて集中できないから、着替えてくれ」と言われたことがあった。

どうせすぐに脱がすんだから良いでしょ、と自らすっぽんぽんになったような気がする。

何かになりきらなくても良い、って好きな人に言ってほしかった、あの頃の私。

 

余計なこといっぱい書いちゃった

 

サボテンとテーブルヤシ

自分の部屋をジャングルや熱帯雨林みたく作り変えたい、と突然思った。

 

具体的には、あちらこちらから猿やら鳥やら虫やらその他正体の知れない生き物たちの鳴き声が響いていて、濃い緑色の葉をつけた低木と言いながら私の背丈くらいは余裕で追い越してしまうほどの植物が生い茂り、むせぶほどに胸に重い草の香りと湿気と静謐さに押し潰されるような空間に住みたい。

だが、今のところ眼前には都内8畳1Kのアパートの一室、家具も最低限しか置かれておらず、ジャングルにはほど遠い。

私以外の動物をペット不可のこの部屋に入れておくことはできないし私以外の命が重すぎる、ありとあらゆる虫がそんなに得意ではない、この狭い部屋で湿度を上げればカビに包まれ不快指数も伴って上がっていく、等々の理由から現実的ではない。

 

そこでまずは、住み良いと感じられる部屋にするために家具を増やすことから始めた。それまでは、ただ“暮らすことはできる”というだけの部屋だった。

冷蔵庫と壁との空間を埋めるレンジ台、座って作業ができるデスクと椅子、本が増えてきたから回転式の本棚、枕元に座ってもらう恐竜のぬいぐるみ、家具で床を傷付けないためのラグ、…。

ほとんどをネットで注文したため、まだ手元に届いていないものもいくつかあるが、部屋に置くのが楽しみで楽しみで仕方がなく、生活に支障があるのにもかかわらず、届いた後の家具配置に物を動かし、ぽかりと空いた何もない隙間を愛おしく眺めて暮らしている。

注文したものすべてが、茶色と緑色。大地の色。

 

次は、初心者にも育てやすい観葉植物を増やしてみようかと考え始めた。

葉が大きくて、背丈が高くて、それでいて虫があまり湧かないハイドロカルチャーなんかを使った鉢植えが良さそう。

 

だんだんとジャングルや熱帯雨林ではなくて、植物園の温室に近付いてきたような気がするが、それも楽しくて良い。部屋にいる動物が私だけでも成立するところが良い。

幼稚園や小学校の遠足・家族のレジャーで数えきれないほど足を運んだ、地元の公立植物園。大きな温室に入るとすぐに、ででんとド真ん中にラフレシアが構えていた。今でも時折、夢に登場する。

大人になってから訪れた植物園も素晴らしいところばかりだったが、あそこがきっと原点なのだろう。

 

何をしても何を考えても、無意識のうちに回帰している。私には、そういう生き方が向いているのかもしれない。

変化を求めた結果、元に戻る。変化を求めた理由は、戻りたかったから。

 

こういう恰好つけない日記も、少しずつ書いていこうと思う。

 

煙草はピースライト、たまにショートホープ

最後にこのブログに投稿してから、いつの間にか4年近くが経っていた。

その間に当然4つ歳を重ね、住む場所も仕事も変え、とてつもなく大きな喪失をも経験した。

 

この喪失についてはTwitter(未だペケマークに慣れることができていない)にも書いた通りで、

 

 

何年も掛けて、下手をすれば一生を投じて、じっくりと消化しなければならない物事の短いリストに加わったため、まだここで文字に起こすことはできない。

が、100均の片隅で埃をかぶっている何も消せない消しゴムと呼ぶにも躊躇う塊から始めて、小学生男子がこぞって机にこすりつけるのに熱中していた練り消しくらいにまでは、懐柔することができているような気がしている。

この先、幼馴染の家の洗面所に流してこっぴどく叱られたスライムくらいにまで引き伸ばすことができれば、文字にも起こしてみたいと思う。

 

 

今年の12月で30歳になる。

こんな30歳がいて堪るかと怒鳴りたくなるような、あらあら今時の30歳って若いのねえとイマジナリーくそマダムに嫌味を言われるような、そんな程度の知れた人間だが、生年月日は努力では変えられない。

 

少し年上の友人や同僚や先輩たちから、”30歳になるとは”という題目を、折に触れて聞かされてきた。

もう少し年上の友人や同僚や先輩たちからは、「40歳を迎えることには、そこまでの感慨はない」とも聞かされた。

私としては、傍からは上記のように頼りなくみられるかもしれないというのは百も承知の上で、「○○歳だから」と行動を年齢に紐づけて縛られてしまうのは嫌でその時に感じたように舵を切りたいと思い続けてきた。しかし、こうやって若さについて当事者として考えられる期間が一生のうちで今しかないのならば、あえて全力で乗っかってみるのも楽しくて良いかもしれないとも思い(結局は楽しいと思う方に顔を向けただけだが)、楽しく悶々と思い悩むようにしている。

 

一つの節目として、楽しく悶々とするための材料として、ここまでの人生を振り返る機会が増えた。特に、本・音楽・映画など、いわゆる鑑賞と呼ばれる行為について。作品や作家の名前を具体的に挙げることで、勝手に象徴してもらった気になれるからかしら。

 

それらを記録として残しておこうと思い、4年ぶりにブログの編集画面を開いた。

 

が、書いている途中であまりにも恥ずかしくなったので、すべて消した。

 

ことごとくメインカルチャーを経由できていない。あえて避けてきたのではなく、気が付いたらここに居た。サブカルを気取っていた時期もあったが、それしか知らないだけだった。好きなものを好きだという気持ちに変わりはないということは前提としつつ、恥ずかしい。

 

けれども、きっと多くの人が“それしか知らない”状態だった時期がありその最大公約数がメインカルチャーになるのかな、と3秒で思い直すことができた。

いいじゃん、30歳。

 

茹でたまごはキリンに似ている

今朝目が覚めた瞬間、久々に全身が希死念慮に塗れていて、その原因が今となってはどうしようもない過去の事象だったからか、今度は寝る前に、人生をやり直せるならば、という何の慰めにもならないことを考え始めてしまい、それでも「この人に出会うためには」という着地点がはっきりしている現状でいることは、きっと有り難く思うべきことなのだろう。
人生をやり直すことができたとして、私の今の記憶を保つことができていたとして、無事にその人とすれ違う環境が整ったとして、果たして、いざその人に出会ったときに、どうやって現在の関係性を説明すれば良いのだろうか、というところまで、仮の人生が進んだ。ここまで辿り着くのに、優に二時間は悶々としていた。
私はその人のことを知っているつもりでいて、何も知らないのだ、と気が付いた。確かに、どんなものを好むかやどんな半生だったかということは現在は聞いて知っているつもりでいるけれど、この仮の人生の中のその人は、私が現在知っているつもりのその人とは確かに違っていた。
その人は象が好きだった。鷹揚にも見える歩の進め方や、優しく悲しげな目、驚くほどに繊細な尾の先、個々のパーツを愛し、そして一つの種としても、もちろん愛していた。
それなのに、二時間越しに出会ったその人は、象革で出来ているというハンドバッグを持ち、象牙の指輪を嵌め、なんとアマサギを焼いて食べるのが大好きだという。
そんな可愛がり方、信じられない、と私が呟くと、あっはっはと大口を開けて笑う。その笑い方は、私の知っている通りだった。

極細ポッキーの闇

 探し物をしに、波間を縫って泳ぐ。予想していたのよりもずっと容易い。取り巻く粒たちが思っていたよりも柔らかくて小さいからだ。ただ、探し物自体は容易いものだとは言い難い。ここから、私の見知った風景の描かれた一葉を探さなければならないのだから。けれども時間はたっぷりとある、この薄暗く赤く染まった空間の中で、これから一人が持てるすべての時間を捧げるつもりだ。

 

 

 乳首が痛い。文字通り、取れそうに痛い。すでに昨夜、左から6個、右から4個、それぞれ取れた。痛いのはいずれきっと治まるだろう、では取れた方の使い道はどうしよう。

最近、ストップモーションクッキングの動画をよく見ている。調理器具がサラダになったり、サッカー用品がパスタになったり、キーボードがサンドイッチになったりして、技巧と音とアイデアとに目と耳とを見張っている。

それならば、この取れた乳首だって何かの料理になるのではないか、10個もあるんだからさ、ねえ、ほらちょいちょいっと、ねえってば、

 

 

18歳くらいの若者が、私よりも少し上の世代にファンが多いだろうバンドの、今は解散してしまっているバンドのTシャツを着ていた。その服装について話しかけると「え!知っているんですか!?すごく好きなんです!!!」と興奮気味に返された。特段そのバンドのファンというわけではないのでその場は何とかごまかして済んだのだけれど「ここでこれから音楽の話をするのは嫌だなあ」と思ってしまっていた。彼女とその次の日に会うと、スターウォーズのTシャツを自慢してきたので「かわいいなあ」と思った。

台風が来たのでポケモンパンが食べたくなって、スーパーに行ったのだけれど、まるっきり売っていなくて、売り切れた気配すらまるで無くて、いつの間にか半額値引きシールの貼られた食パンを半斤、カゴに放り込んでいた。ふわふわしているらしい。ポケモンパンと言えば、何とも言えない味の蒸しパンなので、ま蒸しパンもこの食パンもふわふわしているからいいか、と思ったけれど、全然良くない、ポケモンシールが付いていない。

やりたいように見た目を変えていたら、陽気な雰囲気が出てきたような気がする。

たぶんきっとこういうのが日記。

 

 

今日の分からないもの。星屑ロンリネス、愛のレジスタンス。

 

伝説の始まり

 今年も桜の季節が終わった。終わっていた、という方が正しいのかもしれない。満開になるのをまだかまだかと待ちわびているうちに、いつの間にかもう緑の方が多い風景に移り変わっている。毎年恒例の「今年も逃したか」という思い。毎日見ているはずなのに、毎日気にかけているはずなのに。

 “サクラサク”という表現には、様々な事象が含蓄される。そのままの意味の桜が咲く、志望校に合格した、選挙で当選した、おおまかに言えば誰かの切望が叶う、ということ。
 そう考えれば、大統領になる、という道筋には桜が咲き続けているのかもしれない。地方選挙から始まり、世界を揺るがす大統領選まで、私が毎年見逃し続けている満開の桜を、彼らはずっと見続けている。

 先日亡くなった著名な文学者が「桜の開花情報をこんなにも気にかけているのは、日本人だけです」と言い切っていたのがとても印象的で、海外の方にはもしかしてこの感情はないのか、と驚いた覚えがある。他の花に対してなら、その思いはあるのだろうか。花以外のものの移り変わりに際しては、こんなにも感傷的になることがあるのだろうか。

 日本には“大統領”と名の付く人物はいない、桜を見続けている人物はいない。
 ならば、私がその初めてになってやろうではないか。そう思い立ったが吉日、私はまず手始めに、桃色を常に見続けることにした。ずっと見ていれば、自然のピンク色の変化にも敏感になれるのではないか。近所の街路樹をすべて塗り替える。

 いつの間にやら私は「花咲かじいさん」と呼ばれるようになっていた。昔話には確実に近付けている。違う、私がなりたいのは大統領なのだ。日本ですらないのだ。hanasakajiisanにならなければ。

 

岡本かの子「鮨」「川」

透明になりたい時期が定期的にくる。

更衣室に忍び込みたいとか、犬を散歩させているおばさんの後をこっそり尾けたいとか、好きな人の生活を眺めていたいとか、そういうことでは全くなくて、ただただ透き通りたい、透き通った存在になりたい、そのために澄んだものだけを飲み食いしていたい、しなければならない。

 

 

 

体内へ、色、香、味のある塊団かたまりを入れると、何か身がれるような気がした。空気のような喰べものは無いかと思う。腹が減るとえは充分感じるのだが、うっかり喰べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、頬をつけたりした。

 

 

 

熟した味のある食品は口へ運べなかつた。直ぐむかついた。熟した味のる食品といふものは、かの女に何か、かう中年男女の性的のエネルギーを連想さした。
まだ実の入らない果実、塩煎餅、浅草海苔、牛乳の含まぬキヤンデイ、――食品目はつて行つた。かの女は、人の眼に立たぬところで、河原柳の新枝の皮をいて、『自然』のの肌のやうな白い木地をんだ。しみ出すほの青い汁の匂ひは、かの女にそのときだけ人心地を恢復かいふくさした。

 

 

 

 

それぞれの作品の要はこの箇所ではないようにも思うが、二作品に共通するこれらが、もう何年も、脳裏から離れない。

矛盾した摂食行動に走る、じわじわと後悔が湧いて出るが、吐いて無かったことにするような気概は持ち合わせていない、じっと消化されるのを待つ、明け方も通り過ぎた、日が長いのは喜ばしい。