山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

月光仮面の暗躍できる間に

最近の生活は落ち着いている。「このままずっとこんな日々が続くのかな」という予感と、「続けば良いのにとまでは言わないまでも、続いていってもまあ許してやれるな」という不遜な思いとが交互に浮かぶくらい。

 

高校生くらいの頃からずっと憧れを持っていた“世界”がある。“世界”という単語で表現できているのか分からないが、他にふさわしい言葉が思い浮かばない。何かぼんやりとしたものへの憧れと、それを好むと好まざるとにかかわらず物憂げに纏った人々に対する憧れ。

16歳のときに、自分を取り巻く環境に疑問を抱き、同時に今の私を形成しているものが体の中に取り込まれ始めた。そこから色々と狂い始めたような気もするけれど、結果的に憧れだったその“世界”に近付けていたように思う。元々の対象が曖昧なものなのではっきりと言い切ることができない。

 

このツイートにある“昔”というのは確かにその高校生の頃で、今から10年前くらい。decade 書きたかっただけ。

冒頭に書いたような最近の生活は、その夜の似合う“世界”とは少し趣が異なっていて、夜というよりは黄昏時・かわたれ時の似合うもの。

私の中の“世界”の定義は曖昧だけれど、その人は間違いなくそこの住人だった。近頃、まるで呪縛のように「あなたの住処はそこではないでしょう、そこに居てはいけないのですよ、こちらへ戻ってきなさいな」と優しく悲しげに、私の脳内だけで微笑む、笑い続ける、消し去ってしまえない。現実世界での交流はもう絶えたような気がするけれど、そうと言い切ってはしまえないところがまたそれらしい。過去のことだ、と振り切ってしまえない自分が腹立たしい。進まなければならないと分かっているし、その機会も眼前にいくらでもあるはずなのに、最初で最後の一歩が踏み出せない。

 

「まるで誠実さの塊のようだ」「堂々とした振る舞いが似合っている」など、自己認識とはかけ離れた印象を抱かれ、それを面と向かって表明されることが増えた。以前から「見た目にはそぐわない中身だね」と言われることは多く、その度に「勝手な印象付けをして、そこから外れたからと言って勝手に失望するなんて」と憤ってはいたが、いい加減それにも疲れた。少し媚を売り過ぎた、外面を取り繕い過ぎた、今の私と言ったら、まるで光燦燦と降りそそぐ春の昼下がりじゃないか、深く暗く寒く寂しい夜になりたいのではなかったのか。

かと言って、今を捨ててしまう甲斐性も私にはない、暮らしていかなければならない。ささやかな抵抗として、まずは黙っていても分かるところから変えてみる。

前髪をめちゃくちゃにガタガタに切った、耳たぶに穴を開けてみた、首に付けられた痕を隠さず見せつけるようにした、効果はない。

 

外見を少しだけ変えたのは、上のような当てつけじみた意味や、自分を取り戻したいという意味もあるが、家から出ることへの恐怖を乗り越えるためのおまじない、という側面もある。指輪をしているから大丈夫、お気に入りの髪留めだから大丈夫、ファーストピアスは数ヶ月は外せないから大丈夫、私にとって装飾品はすべて武装、使わない武器を携行していること自体に意味がある。

その面では、学校に行くのが怖くて、コンタクトレンズを入れた上から度の入っていない太い黒縁の眼鏡をかけていた高校生の頃から、何も変わってはいない。すべてがあの頃に収束する。

 

朝起きて身支度をするとき、入浴前に服を脱いでいるとき、寝る前に歯を磨いているとき、それぞれ鏡を見る度に「自分ってこんな顔だったかな」と少しだけ考える。思っていたものよりも美醜の度合いがどちらかに強い、というのではなく、ただ純粋に記憶の中の顔と異なるような気がする。

自分以外についてもそう。数週間ぶり・数ヶ月ぶり・数年ぶりに会う人はもちろん、ほぼ毎日顔を合わせている同僚や上司でさえも、その日の初めに顔を見たときに「こんな顔だったっけ」とほぼ毎日思う。見目が良い悪いというのではなく、本当に少しだけの違和感。

最後だけは16歳の私が関係ない話題で安心した。

 

 

ローズヒップティーを持て余す

 

【 最近のお気に入りの動詞は“埋める” 】

夜中にお台所に立つ、のどが渇いた、味のあるものが飲みたい、体が熱を帯びているような気がする、透明なグラスに氷をみっちり、飲みたいだけのアイスコーヒーをたっぷりと、残りの空いた部分を牛乳で埋める、ほら“埋める”!

土の匂いがする言葉なのがなんだか気に食わない。「ボデーを透明にするんだよ」と熱帯魚屋さんのお知り合いが言っていたように、他の手段の方がずっと良いに決まっている。

 穴を埋める、という使い方はしっかりと気に食う。埋めてくれ。

 

 

【 最近のお気に入りの名詞は“タンバリン” 】

モンキータンバリン、赤いタンバリン、はしれ!タンバリン、タンバリンレコード

短期間に短時間にこんなにも”タンバリン”“タンバリン”“タンバリン”“タンバリン”

めちゃくちゃしていた頃、4日間で3人の違う男性から、それぞれ全く違う文脈で“上沼恵美子”という単語を聞いたときのことを思い出した。

そのあたりはちょうど、母が彼女のラジオにハマっていた時期だったから、これは母の呪いなのかと思い恐れていた。今でも少し怖い。打楽器に呪われるようなことをした覚えは、今のところない。いや、あるのかな。

 

 

アソートならブルボンが一番

 

自分で前髪を切った、いつもの眉上の長さに。だいぶスッキリした心持ちでいるが、近いうちに美容院に行かなければならない、という問題の根本的解決にはなっていない。自分史上最長なので、アレンジが楽しいとか、お風呂上がりに手入れしている時間が好きだとか、新しい発見もあるけれど、徐々に飽きがまわってきた。誰にも黙って急にベリーショートくらいに短くして周囲を驚かせようかな、「失恋でもしたの?」と聞かれたら「実はそうなの…」と暗い顔で答えてその場の空気をうんと重くしてみようかな、ここに書いた時点で黙れてはいないけれども。

 

 ぎりぎりのところで生きているな、と実感している。置かれている環境や経済的な問題ではなく、そうであった時期もあったのだけれど今は何とかやっていけているのでそうではなく、日常生活における一つ一つの動作がことごとく危ういという点で。物をこぼす倒す落とす壊す、つまづくぶつける転ぶ血が滲む、道を車に轢かれないようにきちんと歩けているのが不思議なくらいに、あらゆる動作が“何とか成功している、失敗にはならなかった”というラインで成り立っている。たぶんこれは、よく私が大雑把だとかがさつだとか評される所以なんだけれども、「あなたは限りなく正解を選び続ける」と言われたときのことを思い出して、今日も何とか生きている。

 

印象的な映画に登場する料理を、自分で作る大人になるとは思わなかった。しかもフランスの恋愛映画。調味料を揃えるために、見慣れない陳列棚の前でスマホを見ながら首をひねる。いささか感傷的に過ぎる。出来上がった料理はゆうに5人前はあり、私には辛すぎて、だいぶんにおセンチ。

 

世界には足を踏み入れたくなかった。ずっと傍観者でいたかった。 

 

人と別れて人と待ち合わせるまでに少し時間があった、繁華街のど真ん中にある家の墓に足を向ける。高級料亭の裏を通らなければたどり着かないので、行く度に「ここはあなたのような人の来る場所ではありませんよ」という視線を、厨房の裏口の見習いさんらしき人達から向けられるのが、いつも少し楽しい。墓園の掃除をしている男性に「ご苦労様です」と声をかけられて会釈を返す。いつも自分の家のお墓の場所が分からなくて迷子になる。池田さん家の角を曲がったところだったような、あれ北川さんだったかな、佐野さんだったような気もする。今回も覚えられなかった。迷子になるのは花園だけではなく、墓園でも良いんだよ。

 

四季の中でどれがもっとも好きか、という話題になった。“春は別れと出会いの季節、秋は物寂しく、夏と冬は厳しい”。気温や気候を考えれば納得はできるのだけれど、いつでも寂しいのは寂しいし、常に何かと誰かと出会って別れているし、実感はできない。あっという間に初夏を迎えた。新緑の活き活きとした季節、屍人の似合う季節。

 

 

優勝賞品はお米20kg

 仕事が何も無い週末を、久しぶりに迎えた。
 せっかくの休日だ。特に予定はないのだが、最近自炊を始めたばかりで、休みのうちにその材料を調達しておきたい。だが、近所のスーパーは品揃えが良くない。思い切って、郊外にある大型ショッピングモールまで、足を延ばすことにした。

 

 駐車場に車を停め、今夜のメニューは何にするか、と考えながら店内へと続く通路をぶらぶらと歩いていた。ふと、耳に喧噪が触れる。どうやら、店の外壁に沿って設置された屋外ステージから聞こえてくる音らしい。
 何のイベントだ、と何気なくそちらの方向へ足を向ける。目的地は生鮮食品売り場から屋外ステージへと変わったのだが、頭の中は未だ、献立でいっぱいである。

「昨日のテレビで見た白和え、美味しそうだったよな。市販の素を使うんじゃなくて、豆腐を買って挑戦してみるか。」

 

 自炊初心者である彼の考える献立が、二十代にしてはいささか渋いのは、彼が料理を始めるきっかけとして、祖母の影響がかなり大きかったからだ。
 共働き家庭で育った彼は、大学に進学して地元を離れるまで、自宅から徒歩三分の祖母の家で、毎晩のように夕食を食べていた。それだけでなく、学校が休みで暇な日には、祖母と一緒にテレビを見たり、カラオケ教室に通ったり、と根っからのおばあちゃんっこだったのである。
 だからこそ、去年の暮れに祖母が亡くなったときには、絶大な喪失感を覚えた。それからである。彼が自炊を始めて、祖母の味を再現しようと取り組むようになったのは。


 現に今も、彼の口の中には、かつて祖母が作ってくれた白和えの味が広がっている。

 彼の口から思わずよだれが一筋零れ落ちそうになったその時、目に飛び込んできたのは、ステージ上でヨーヨーをする、祖母の姿だった。

 え、と一瞬うろたえるが、「いやいや、おばあちゃんがこんなところにいるわけがない。そもそも、おばあちゃんはもう…。」と思い直し、改めてよーく目を凝らす。 背格好はよく似ているが、祖母よりも少し大柄な年配の女性だった。
 それよりもなんだ、この催しは。垂れ幕には『第6回 ○○市民  大"ヨーヨー"大会』と書かれている。

 彼が戸惑いながらそこまでの情報を得たとき、年配女性は舞台を降り、入れ替わりに彼と同年代であろう眼鏡の男性が上がってきた。男性が歩いて来た方向を見ると、大会の参加者であろう人々が為した行列が見える。小学生からお年寄りまで、それこそ老若男女問わず、二十人ほどが並んでいる。


 俄然、興味が湧いてきた。小学生の頃、ヨーヨーの小学校チャンピオンにもなった過去を隠し持つ彼だ。こんなイベントを目にして、参加しないわけにはいかない。いそいそと受付に行き、参加費を支払い、大会指定のヨーヨーを受け取り、先ほどの列の一員となる。

 

 列に並び、自分の順番を待っていると、ふと祖母との思い出がよみがえってきた。
 小学校でのヨーヨー大会の前、好きな女の子に良いところを見せたくて、必ず優勝する、とみんなの前で大見栄を切って言ってしまった。別にヨーヨーが得意なわけでもないのに。
 いつもの食事の後、必死でヨーヨーの練習をする彼を見ていた祖母は次の日、自分用にヨーヨーを買ってきた。彼と一緒に練習するためである。
 祖母はなかなか器用な人で、あっという間に彼よりも上手くなってしまった。彼はそれが悔しくて悔しくて、一生懸命に練習し大会で優勝することができた。結局、最後まで祖母には勝てなかったんだけれども。

 

 「そう、優勝した日には夕食のおかずにちょうど白和えが出てたっけな。せっかく頑張ったんだから、もっと豪華なおかずが良かった、って言っておばあちゃんを怒らせちゃったよな…。」

 そこまで思い起こしたとき、彼に声がかけられた。


 「お客さん、次はお客さんの番ですよ。」
 いつの間にか列は進み、彼の順番が回ってきていたらしい。

 よし、気合を入れていこう。そうだ、僕より上手だった祖母が出てきてくれれば、絶対に勝てるのではないだろうか。一緒に出ようよ、おばあちゃん。
 彼はそう思い当たり、心の中でこう叫んでから、舞台に上がった。

 

 「行くよ!おばあちゃん!」

 

 

みんな幸福村においでよ

 

 冷凍庫に溜まりに溜まっていたアイスクリームを、食べ始めることができるようになった。昨日は信玄餅アイス、今日は黒ゴマやわもちアイス、もちもちしたものが入っているカップアイスばかりが、行儀よく勢揃いしている。

 引っ越してから昨日まではずっと、どこか、生活の表面をなぞっただけのような、上っ面だけの、どこかに何かを忘れてきてしまったがそれが何かを思い出せないような、そんな気持ちで暮らしていた。

 家に誰かを招待しても、部屋を見られることへの抵抗は少なくて、それは「これが自分の生活空間である」と暗に他人に表明しているという意識が希薄だったからなのかもしれない。

 アイスクリームを買うだけ買って、全く手をつけていなかったのも、きっとそういう理由から。深夜に遠方のコンビニまで車を走らせて、アイスクリームだけを買って店を出る。

”アイスならきっといつかは食べるだろう、これが溶け切ってしまうまでには家に帰ろうかな”

  もちもちとした食感でもなく、とろけるような甘さでもなく、体が帯びた熱に対抗するための冷たさでもなく、こんな仄暗い動機でショーケースから取り出されるカップの抱く選民思想

 

 大型ショッピングモールの片隅にある、その場には似つかわしくない、ピカピカしていない古びた雑貨屋で、触れている物の温度で色が変化する指輪を買った。

  気温に適応するのが難しすぎる。今日だって、久々に上下揃ったスーツを着て出席しなければならない会合に、春だからね~途中まで車移動だし~、と上に何も羽織らずに出かけたら、そんな恰好でいるのは私だけだった。皆スプリングコートやらなんやらしっかりと着込んでいるし、しまいには「今朝冬用のコートを引っ張り出したよ、あなた寒そうだね、私の手袋使う?」と心配までされる始末。手袋て、こちとら春を生きとるんじゃ。めちゃくちゃに寒かった。

 そんな調子だから、自分の体の冷えにも鈍感なんだけれど、この変色自在の指輪をはめてさえいれば手先の体温が視認できる。さらに職場には付けていけない目立ち具合で、気持ちを切り替えるのにもちょうど良いかな、と。まーたあんたはメタメタことばっかり考えて、とどこかにいるであろうお母さんに怒られてしまう。

 

 やっと生活の実感が湧いてきた。今日は頑張ったからご褒美にもちもちしたアイスを食べた、指輪が黒い、どうやら冷えているようだ、暖房でもつけようか。

 

 

いささか露悪趣味に過ぎる

 

私の家の中にはドアがない。すべて引き戸で、ずっと、なんだか不便だな、と思っていたけれど、紐をくくる場所がないからそれはそれで良いんじゃないか、と今日初めて思えた。

  

 

「こんな日がくるとは思わなかった。」

天気の良い暖かな午後に二人で家の近くの川沿いをゆっくりと散歩できる日?

とことん体調が悪い日に家までポカリと薬と温かいおでんを買ってきてくれて、たくさん胸を揉ませてくれる日?

日付が変わった瞬間にキスできる至近距離に好きな人がいる誕生日?

それとも、夏の夜更けに草むらの中で初めて抱き合えた日?

どんな日もくるよ、私は「こんな日がくるとは思わなかった」とは思わない、思いたくない、そう思えばそれはすべてただの理想の具現化に成り下がっていつかは体の芯から消えてしまう、ずっと現実にいさせてほしい。

 

  

ダイエットをすると明言してしまった。ちょうど今、私の頭よりも大きいキャベツが丸ごと冷蔵庫に眠っている、主食をキャベツにしよう。数日が経って、千切りにするのとオリジナルのドレッシングを作るのだけが上達した。体重はたぶん減っていない、家に体重計が無いからはっきりとは分からないけれど。

 

 

泣きじゃくりながらリンゴの皮を剥く。「いつもより塩っぱいね、これ。」なんて言うけれど、なんだかそれって不潔じゃない? きっと根っからのロマンチストにはなれないね。

驚くほどの量の砂糖を鍋に入れて煮る。ただひたすらに煮る、煮詰める。

嵩が減る、色が濃くなる、

 

 

最後の一本まで吸いきってしまった。外出しなければ、お金を使わなければ、経済活動を、生活を、家事を、睡眠を、呼吸を、

 

 

私の人生の登場人物になった気分はどう?

監督主演脚本音響照明はすべて私、編集は利かない

 

 

伸びた爪と髪の長さでのみ、生を知る。私は母にはなれない。

 

桃色のチョコバナナ

 

世間は春真っ盛りと言ったご様子、風が冷たい瞬間はまだまだあるけれど、昼間の陽気はもう当たり前の顔をしてそこにいる。

 

東海随一と地方情報誌で評されていた名所に、二週連続でお花見に足を運んでいる。足、と言ってもこの町は完全な車社会なので、もちろん自動車で向かう。桜を見ながら甘いピンクのお酒でも、とはいかないのが少しだけ悲しい。

先週は、今まさに咲かんとす、と再読文字の句形を覚えたての高校生のようなことを言いたくなるような開花状況で、花見客だけを数えるなら閑散としていたのだが、今日は八分咲きくらいには開花していて、屋台が出るわ和太鼓が鳴るわ大道芸芸人がいるわ戦国武将が記念撮影会をしているわ、とお祭り騒ぎになっていた。桜が主役でなくなっているのが腑に落ちないな、と思いながらも恋人にクレープとたこ焼きを買ってもらって、心もお口もほくほく、粉もん最高。花は言うまでもなく最高。

今日訪れた公園からは、私の職場の裏手まで川沿いに桜並木が続いているので、仕事の休憩時間にも毎日のように一人で花見をしにふらふらと出かけている。散り切ってしまうまで、あと何回お花見できるかしら。

 

帰り道の車内で、流れているCDの曲名に興奮気味に言及し続ける彼に、「こうやって会うのはやめない?」と言う。それだけですべて察してくれるところは嫌いじゃなかった。彼の返事は「ありがとう」の一言だった、今までの楽しかったことを思い出してそう言ったらしい。聞き分けと諦めの良すぎるところはあんまり好きじゃなかった。

 

平成の次の元号は何か、とみんなが騒いでいる。彼も騒いでいたし、今朝も持論を話してくれた。聞いたこともない、斬新で明るくてふんわりとした説だった。明日、新元号が発表されれば、その予想が当たっていたかどうかははっきりするけれど、正解だったかどうかは誰にも話さず、私と彼だけの秘密にしておこう。

この、平成が終わることは分かっているのに次の元号が分からない、という宙ぶらりんな状態がずっと続けばいいのに、とずっと思っていた。そうすれば曖昧なまま継続できていたのかもしれないな。時代のせいにする悪いやつ。

 

今日中に書かなければ、この話題の鮮度が失われてしまう。近頃、何もかも展開が早くて置いていかれがちなので、なんとか滑り込みたい、との一心でここまで書いた。

 

私、間に合えてる?

 

 

 

愚にもつかぬギ

  引っ越しも一段落つき、色々な環境も整い、新しい場所での暮らしの基盤が順調に構築されつつあります。故郷に残してきたものは様々ある、ありすぎるけれど、ここに”故郷”という言葉が登場すること自体に、自分はしばらく地元に帰るつもりがないんだな、とか、あそこは故郷と呼ぶにふさわしくお誂え向きの街であまりにも陳腐に過ぎる、とか、帰りたいあそこへ行きたいあの人に会いたい、とかグルグルしてきてしまうので、わざと目を逸らし続けている。直視できる時がいつか来るのかしら。

 

 最近、「自分の中の思いを消化する」という言葉を無意識のうちに、さらには頻繁に使ってしまう。本当に無意識で、何か印象的な出来事があってそれを幾日も引きずっているようなときには決まってこの言葉が脳裏に浮かび、いつの間にかTwitterで発露している。何しろ友人が少ないもので。いつもお目汚し頂き、ありがとうございます。

 消化するということは、受け取った何かを自分の力で分解し自らの血肉としエネルギーとしていく、ということなのだろうけれど、今までの、と言っても自我が芽生え始めたのがごく最近なので、ここ一年ほどの中で、これは確実に消化できた、と言えるものに心当たりがない。

 けれども、哀れな生き物であり続けるには、私はあまりにも擦れすぎてしまった、たくましく生きていくための術を身に付けてしまった。草を食む速度が追い付かないのならば、餓死を迎えるまでに腹を空かせた肉食獣の目の前に飛び出たり、あるいは恐る恐る虫や果物を口にしてみたり、という方法を知ってしまった。

  哀れみすらこの身に受けることはできない。あるのは軽蔑と焦燥と羨望の眼差しだけ、どれも私に直に触れてはくれない。

  

 

 思い出したように前回の続きに戻る。前回、とはこちらの記事のこと。

no-koriga.hatenablog.com

 

・等速直線運動のできるあなた

 「気が合わないな、って思うのはどんな人?」と尋ねられた。私の答えは確か「相槌の打ち方に腹が立つ人」だった。問うた本人は「ボディタッチの多い人、やたらと積極的な人、海辺でBBQをするような人、それから……」と例を挙げていたように思う。もうだいぶん前のことなので記憶が曖昧であるし、その内容に是非を唱える義理はない。

 思い返せば、この人とは気が合わないなー、となった経験がほとんどない。ほとんど、に入れてもらえない可哀そうな人は今の恋人、ああなんて可哀そうな人。なんて、冗談だけれども。どこからどこまでが真実なのかは読んでいる人が決めることなんですよ。ボディタッチの多い人も、やたらと何事にも積極的な人も、海辺でBBQしたがるような人も、すぐに中指を立てる人も、みんな分かりやすくて良いじゃない。何が好きでどうすれば喜んでくれるのか、私に見せたい面はどんなものなのか、分からせてくれる。私はもっと、複雑で繊細で深くて怖くて美しくてこちらが戸惑うような人が好きなんです。あれ、前述の人、みんなと合わない。分かりやすく馬鹿な私、自分とも気が合わないこともあるんだな。

 

・罪とは罰とは

  皆さんの言う、鬱とは?虚無とは?オタクとは?

 どれも医学的辞書的文化的背景などをそれぞれに持つ言葉であることは充分に承知しているし、言わんとすることも大方は分かるのだけれど、皆さんがあまりにも”我々に共通の免罪符である”かのごとくおっしゃるので、恐ろしくなってきた。私ったら義務教育で飛び級してしまったかしら、私の知らないテキストでも配布されたのかしら、ママのお腹の中に置いてきてしまったの、ママは私よ、あなたは誰、私は…

 ただ純粋に、前述のもの以外にも、皆さんの心の中にある言葉の定義を教えて頂きたい、という気持ちでいっぱいなのです。これは本当に混じり気のない好奇心。純度100%の気持ちを向けられたあなたは、この問いに答えるしかない。「あなたのその言葉には、どのような意味が込められているのですか?」

 ちなみに、私の言う”虚無”とは「持て余した感情を注ぐ先のないこと」です。

 

 ・水中花

 これが愛だあれが愛だたぶん愛だと騒いではいるけれど、きっとそのどれもが愛で、かつどれも愛ではなかったんだろう。

 これはただ思いついただけ、言いたかっただけの言葉です。口説き文句に使いたかったら使ってもいいよ。