山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

茹でたまごはキリンに似ている

今朝目が覚めた瞬間、久々に全身が希死念慮に塗れていて、その原因が今となってはどうしようもない過去の事象だったからか、今度は寝る前に、人生をやり直せるならば、という何の慰めにもならないことを考え始めてしまい、それでも「この人に出会うためには」という着地点がはっきりしている現状でいることは、きっと有り難く思うべきことなのだろう。
人生をやり直すことができたとして、私の今の記憶を保つことができていたとして、無事にその人とすれ違う環境が整ったとして、果たして、いざその人に出会ったときに、どうやって現在の関係性を説明すれば良いのだろうか、というところまで、仮の人生が進んだ。ここまで辿り着くのに、優に二時間は悶々としていた。
私はその人のことを知っているつもりでいて、何も知らないのだ、と気が付いた。確かに、どんなものを好むかやどんな半生だったかということは現在は聞いて知っているつもりでいるけれど、この仮の人生の中のその人は、私が現在知っているつもりのその人とは確かに違っていた。
その人は象が好きだった。鷹揚にも見える歩の進め方や、優しく悲しげな目、驚くほどに繊細な尾の先、個々のパーツを愛し、そして一つの種としても、もちろん愛していた。
それなのに、二時間越しに出会ったその人は、象革で出来ているというハンドバッグを持ち、象牙の指輪を嵌め、なんとアマサギを焼いて食べるのが大好きだという。
そんな可愛がり方、信じられない、と私が呟くと、あっはっはと大口を開けて笑う。その笑い方は、私の知っている通りだった。