山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

伝説の始まり

 今年も桜の季節が終わった。終わっていた、という方が正しいのかもしれない。満開になるのをまだかまだかと待ちわびているうちに、いつの間にかもう緑の方が多い風景に移り変わっている。毎年恒例の「今年も逃したか」という思い。毎日見ているはずなのに、毎日気にかけているはずなのに。

 “サクラサク”という表現には、様々な事象が含蓄される。そのままの意味の桜が咲く、志望校に合格した、選挙で当選した、おおまかに言えば誰かの切望が叶う、ということ。
 そう考えれば、大統領になる、という道筋には桜が咲き続けているのかもしれない。地方選挙から始まり、世界を揺るがす大統領選まで、私が毎年見逃し続けている満開の桜を、彼らはずっと見続けている。

 先日亡くなった著名な文学者が「桜の開花情報をこんなにも気にかけているのは、日本人だけです」と言い切っていたのがとても印象的で、海外の方にはもしかしてこの感情はないのか、と驚いた覚えがある。他の花に対してなら、その思いはあるのだろうか。花以外のものの移り変わりに際しては、こんなにも感傷的になることがあるのだろうか。

 日本には“大統領”と名の付く人物はいない、桜を見続けている人物はいない。
 ならば、私がその初めてになってやろうではないか。そう思い立ったが吉日、私はまず手始めに、桃色を常に見続けることにした。ずっと見ていれば、自然のピンク色の変化にも敏感になれるのではないか。近所の街路樹をすべて塗り替える。

 いつの間にやら私は「花咲かじいさん」と呼ばれるようになっていた。昔話には確実に近付けている。違う、私がなりたいのは大統領なのだ。日本ですらないのだ。hanasakajiisanにならなければ。