大学の頃の後輩と銭湯に行った。
連休初日の夜、裸体で混み合う露天風呂に浸かりながら、お互いの近況を話す。
後輩はまだ学生で、最近、来年の卒業式の日に講堂の前でプロポーズをしてもらうという約束を、彼氏としたらしい。
「大学には友達が少なくて知らない人ばっかりだから、全くの他人に自分の幸せを見せ付けられるし、元々がおめでたい場だから皆に祝ってもらえる。」と、この方法をリクエストした理由について彼女は語っていた。
彼女の願望と、そう願う理由には驚いたけれど、それは私には関係ないので置いておくとして、ここから互いの結婚についての話になった。
私の交遊関係について私よりも把握している彼女は、「結婚とかする気ないんでしょ?」と半分笑いながら言ったけれど、結婚願望はきちんと持っているし、いつかは自分の姓を手放すことになるんだろうな、とおぼろげに考えることもある。
「結婚はしたいよ」と返すと、「なんで?」と聞き返されて、「そうでもしないと私なんか一生ふらふらしてそうだからね」とかなんとか言った気がするけれど、明確には答えられなかった。
こういう会話をした翌日、ふらふらしていた相手の一人からデート中に「彼氏になってもいいか?」と言われて、まあ断る理由もないしなあ、とそんなつもりは全くなかったのに何となく了承してしまった。私の良くないところが出た。
その男性は私がふらふらしているのは知っていてそれでも、という点が唯一の救いかな、と思いながら、今の状態を変える気が全くない自分に驚いた。
「結婚という書類上の契約でもしなければ、いよいよずっとこのままなんじゃないか」と恐ろしく思う気持ちと、「結婚したからといって何が変わるもんか」とやけっぱちになる気持ちとが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになっていた。ここまでが連休最終日。
連休明け、
× 結婚したい
— 鹿 (@fjsk_shk) 2018年11月26日
◯ 息抜きに人と喋ったりココアを飲んだり一緒にゴロゴロ昼寝をしたりしたくなったときに、何も気にせずすぐに誘える居心地のいい他人がいてほしい
このツイートをタイムラインで見かけて、自分にとっての結婚とは何か、と考えた。
ただ一人の愛する人と添い遂げたい、という思いはない。好きな人が多すぎる。
誰かの扶養に入りたい、と全く思わないと言えば嘘になる。働きたくないと思う日もある。
上記ツイートのような、”居心地のいい他人”は、今でも何人かいる。
ここまで考えていて、自分の中には「許されたい」という思いがあることに気が付いた。
幸せなものというイメージの強い結婚を、私がしてもいいんだ
結婚相手となら、どれだけデートしていても、どんなセックスをいくらしていても、誰からも咎められないんだ
誰かにとってのただ一人になっていいんだ
こういう「許されたい」思いがぎゅっとつまっているのが、私の「結婚したい」という願望だった。
正直に言うと、好きな誰かから書類上の契約として縛られている という状況に興奮する、というのも少なからずある。