山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

三連休とその後の一日

大学の頃の後輩と銭湯に行った。

連休初日の夜、裸体で混み合う露天風呂に浸かりながら、お互いの近況を話す。

後輩はまだ学生で、最近、来年の卒業式の日に講堂の前でプロポーズをしてもらうという約束を、彼氏としたらしい。

「大学には友達が少なくて知らない人ばっかりだから、全くの他人に自分の幸せを見せ付けられるし、元々がおめでたい場だから皆に祝ってもらえる。」と、この方法をリクエストした理由について彼女は語っていた。

彼女の願望と、そう願う理由には驚いたけれど、それは私には関係ないので置いておくとして、ここから互いの結婚についての話になった。

私の交遊関係について私よりも把握している彼女は、「結婚とかする気ないんでしょ?」と半分笑いながら言ったけれど、結婚願望はきちんと持っているし、いつかは自分の姓を手放すことになるんだろうな、とおぼろげに考えることもある。

 「結婚はしたいよ」と返すと、「なんで?」と聞き返されて、「そうでもしないと私なんか一生ふらふらしてそうだからね」とかなんとか言った気がするけれど、明確には答えられなかった。

 

こういう会話をした翌日、ふらふらしていた相手の一人からデート中に「彼氏になってもいいか?」と言われて、まあ断る理由もないしなあ、とそんなつもりは全くなかったのに何となく了承してしまった。私の良くないところが出た。

その男性は私がふらふらしているのは知っていてそれでも、という点が唯一の救いかな、と思いながら、今の状態を変える気が全くない自分に驚いた。

「結婚という書類上の契約でもしなければ、いよいよずっとこのままなんじゃないか」と恐ろしく思う気持ちと、「結婚したからといって何が変わるもんか」とやけっぱちになる気持ちとが混ざり合って、ぐちゃぐちゃになっていた。ここまでが連休最終日。

 

連休明け、

このツイートをタイムラインで見かけて、自分にとっての結婚とは何か、と考えた。

 

ただ一人の愛する人と添い遂げたい、という思いはない。好きな人が多すぎる。

誰かの扶養に入りたい、と全く思わないと言えば嘘になる。働きたくないと思う日もある。

上記ツイートのような、”居心地のいい他人”は、今でも何人かいる。

 

ここまで考えていて、自分の中には「許されたい」という思いがあることに気が付いた。

 

幸せなものというイメージの強い結婚を、私がしてもいいんだ

結婚相手となら、どれだけデートしていても、どんなセックスをいくらしていても、誰からも咎められないんだ

誰かにとってのただ一人になっていいんだ

 

こういう「許されたい」思いがぎゅっとつまっているのが、私の「結婚したい」という願望だった。

 

正直に言うと、好きな誰かから書類上の契約として縛られている という状況に興奮する、というのも少なからずある。