山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

岡本かの子「鮨」「川」

透明になりたい時期が定期的にくる。

更衣室に忍び込みたいとか、犬を散歩させているおばさんの後をこっそり尾けたいとか、好きな人の生活を眺めていたいとか、そういうことでは全くなくて、ただただ透き通りたい、透き通った存在になりたい、そのために澄んだものだけを飲み食いしていたい、しなければならない。

 

 

 

体内へ、色、香、味のある塊団かたまりを入れると、何か身がれるような気がした。空気のような喰べものは無いかと思う。腹が減るとえは充分感じるのだが、うっかり喰べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、頬をつけたりした。

 

 

 

熟した味のある食品は口へ運べなかつた。直ぐむかついた。熟した味のる食品といふものは、かの女に何か、かう中年男女の性的のエネルギーを連想さした。
まだ実の入らない果実、塩煎餅、浅草海苔、牛乳の含まぬキヤンデイ、――食品目はつて行つた。かの女は、人の眼に立たぬところで、河原柳の新枝の皮をいて、『自然』のの肌のやうな白い木地をんだ。しみ出すほの青い汁の匂ひは、かの女にそのときだけ人心地を恢復かいふくさした。

 

 

 

 

それぞれの作品の要はこの箇所ではないようにも思うが、二作品に共通するこれらが、もう何年も、脳裏から離れない。

矛盾した摂食行動に走る、じわじわと後悔が湧いて出るが、吐いて無かったことにするような気概は持ち合わせていない、じっと消化されるのを待つ、明け方も通り過ぎた、日が長いのは喜ばしい。