最近の生活は落ち着いている。「このままずっとこんな日々が続くのかな」という予感と、「続けば良いのにとまでは言わないまでも、続いていってもまあ許してやれるな」という不遜な思いとが交互に浮かぶくらい。
高校生くらいの頃からずっと憧れを持っていた“世界”がある。“世界”という単語で表現できているのか分からないが、他にふさわしい言葉が思い浮かばない。何かぼんやりとしたものへの憧れと、それを好むと好まざるとにかかわらず物憂げに纏った人々に対する憧れ。
16歳のときに、自分を取り巻く環境に疑問を抱き、同時に今の私を形成しているものが体の中に取り込まれ始めた。そこから色々と狂い始めたような気もするけれど、結果的に憧れだったその“世界”に近付けていたように思う。元々の対象が曖昧なものなのではっきりと言い切ることができない。
昔から夜がずっと好きで、どうして暗いうちには眠っていなければならないのか、と憤っていたしその雰囲気の似合う大人になりたかったけれど、いざ大人と呼ばれる年齢になってみると、夜の好きなのはそのままに、すべてが曖昧になる夕方が一番になってきて、さらには暁の仄かな明るさまで好ましく思えて
— 空飛ぶ自然 (@no_koriga) 2019年5月21日
このツイートにある“昔”というのは確かにその高校生の頃で、今から10年前くらい。decade 書きたかっただけ。
冒頭に書いたような最近の生活は、その夜の似合う“世界”とは少し趣が異なっていて、夜というよりは黄昏時・かわたれ時の似合うもの。
私の中の“世界”の定義は曖昧だけれど、その人は間違いなくそこの住人だった。近頃、まるで呪縛のように「あなたの住処はそこではないでしょう、そこに居てはいけないのですよ、こちらへ戻ってきなさいな」と優しく悲しげに、私の脳内だけで微笑む、笑い続ける、消し去ってしまえない。現実世界での交流はもう絶えたような気がするけれど、そうと言い切ってはしまえないところがまたそれらしい。過去のことだ、と振り切ってしまえない自分が腹立たしい。進まなければならないと分かっているし、その機会も眼前にいくらでもあるはずなのに、最初で最後の一歩が踏み出せない。
「まるで誠実さの塊のようだ」「堂々とした振る舞いが似合っている」など、自己認識とはかけ離れた印象を抱かれ、それを面と向かって表明されることが増えた。以前から「見た目にはそぐわない中身だね」と言われることは多く、その度に「勝手な印象付けをして、そこから外れたからと言って勝手に失望するなんて」と憤ってはいたが、いい加減それにも疲れた。少し媚を売り過ぎた、外面を取り繕い過ぎた、今の私と言ったら、まるで光燦燦と降りそそぐ春の昼下がりじゃないか、深く暗く寒く寂しい夜になりたいのではなかったのか。
かと言って、今を捨ててしまう甲斐性も私にはない、暮らしていかなければならない。ささやかな抵抗として、まずは黙っていても分かるところから変えてみる。
前髪をめちゃくちゃにガタガタに切った、耳たぶに穴を開けてみた、首に付けられた痕を隠さず見せつけるようにした、効果はない。
外見を少しだけ変えたのは、上のような当てつけじみた意味や、自分を取り戻したいという意味もあるが、家から出ることへの恐怖を乗り越えるためのおまじない、という側面もある。指輪をしているから大丈夫、お気に入りの髪留めだから大丈夫、ファーストピアスは数ヶ月は外せないから大丈夫、私にとって装飾品はすべて武装、使わない武器を携行していること自体に意味がある。
その面では、学校に行くのが怖くて、コンタクトレンズを入れた上から度の入っていない太い黒縁の眼鏡をかけていた高校生の頃から、何も変わってはいない。すべてがあの頃に収束する。
朝起きて身支度をするとき、入浴前に服を脱いでいるとき、寝る前に歯を磨いているとき、それぞれ鏡を見る度に「自分ってこんな顔だったかな」と少しだけ考える。思っていたものよりも美醜の度合いがどちらかに強い、というのではなく、ただ純粋に記憶の中の顔と異なるような気がする。
自分以外についてもそう。数週間ぶり・数ヶ月ぶり・数年ぶりに会う人はもちろん、ほぼ毎日顔を合わせている同僚や上司でさえも、その日の初めに顔を見たときに「こんな顔だったっけ」とほぼ毎日思う。見目が良い悪いというのではなく、本当に少しだけの違和感。
最後だけは16歳の私が関係ない話題で安心した。