山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

アソートならブルボンが一番

 

自分で前髪を切った、いつもの眉上の長さに。だいぶスッキリした心持ちでいるが、近いうちに美容院に行かなければならない、という問題の根本的解決にはなっていない。自分史上最長なので、アレンジが楽しいとか、お風呂上がりに手入れしている時間が好きだとか、新しい発見もあるけれど、徐々に飽きがまわってきた。誰にも黙って急にベリーショートくらいに短くして周囲を驚かせようかな、「失恋でもしたの?」と聞かれたら「実はそうなの…」と暗い顔で答えてその場の空気をうんと重くしてみようかな、ここに書いた時点で黙れてはいないけれども。

 

 ぎりぎりのところで生きているな、と実感している。置かれている環境や経済的な問題ではなく、そうであった時期もあったのだけれど今は何とかやっていけているのでそうではなく、日常生活における一つ一つの動作がことごとく危ういという点で。物をこぼす倒す落とす壊す、つまづくぶつける転ぶ血が滲む、道を車に轢かれないようにきちんと歩けているのが不思議なくらいに、あらゆる動作が“何とか成功している、失敗にはならなかった”というラインで成り立っている。たぶんこれは、よく私が大雑把だとかがさつだとか評される所以なんだけれども、「あなたは限りなく正解を選び続ける」と言われたときのことを思い出して、今日も何とか生きている。

 

印象的な映画に登場する料理を、自分で作る大人になるとは思わなかった。しかもフランスの恋愛映画。調味料を揃えるために、見慣れない陳列棚の前でスマホを見ながら首をひねる。いささか感傷的に過ぎる。出来上がった料理はゆうに5人前はあり、私には辛すぎて、だいぶんにおセンチ。

 

世界には足を踏み入れたくなかった。ずっと傍観者でいたかった。 

 

人と別れて人と待ち合わせるまでに少し時間があった、繁華街のど真ん中にある家の墓に足を向ける。高級料亭の裏を通らなければたどり着かないので、行く度に「ここはあなたのような人の来る場所ではありませんよ」という視線を、厨房の裏口の見習いさんらしき人達から向けられるのが、いつも少し楽しい。墓園の掃除をしている男性に「ご苦労様です」と声をかけられて会釈を返す。いつも自分の家のお墓の場所が分からなくて迷子になる。池田さん家の角を曲がったところだったような、あれ北川さんだったかな、佐野さんだったような気もする。今回も覚えられなかった。迷子になるのは花園だけではなく、墓園でも良いんだよ。

 

四季の中でどれがもっとも好きか、という話題になった。“春は別れと出会いの季節、秋は物寂しく、夏と冬は厳しい”。気温や気候を考えれば納得はできるのだけれど、いつでも寂しいのは寂しいし、常に何かと誰かと出会って別れているし、実感はできない。あっという間に初夏を迎えた。新緑の活き活きとした季節、屍人の似合う季節。