山羊、飴玉、そらまめ、金魚

ごくごく個人的な事情

いささか露悪趣味に過ぎる

 

私の家の中にはドアがない。すべて引き戸で、ずっと、なんだか不便だな、と思っていたけれど、紐をくくる場所がないからそれはそれで良いんじゃないか、と今日初めて思えた。

  

 

「こんな日がくるとは思わなかった。」

天気の良い暖かな午後に二人で家の近くの川沿いをゆっくりと散歩できる日?

とことん体調が悪い日に家までポカリと薬と温かいおでんを買ってきてくれて、たくさん胸を揉ませてくれる日?

日付が変わった瞬間にキスできる至近距離に好きな人がいる誕生日?

それとも、夏の夜更けに草むらの中で初めて抱き合えた日?

どんな日もくるよ、私は「こんな日がくるとは思わなかった」とは思わない、思いたくない、そう思えばそれはすべてただの理想の具現化に成り下がっていつかは体の芯から消えてしまう、ずっと現実にいさせてほしい。

 

  

ダイエットをすると明言してしまった。ちょうど今、私の頭よりも大きいキャベツが丸ごと冷蔵庫に眠っている、主食をキャベツにしよう。数日が経って、千切りにするのとオリジナルのドレッシングを作るのだけが上達した。体重はたぶん減っていない、家に体重計が無いからはっきりとは分からないけれど。

 

 

泣きじゃくりながらリンゴの皮を剥く。「いつもより塩っぱいね、これ。」なんて言うけれど、なんだかそれって不潔じゃない? きっと根っからのロマンチストにはなれないね。

驚くほどの量の砂糖を鍋に入れて煮る。ただひたすらに煮る、煮詰める。

嵩が減る、色が濃くなる、

 

 

最後の一本まで吸いきってしまった。外出しなければ、お金を使わなければ、経済活動を、生活を、家事を、睡眠を、呼吸を、

 

 

私の人生の登場人物になった気分はどう?

監督主演脚本音響照明はすべて私、編集は利かない

 

 

伸びた爪と髪の長さでのみ、生を知る。私は母にはなれない。

 

桃色のチョコバナナ

 

世間は春真っ盛りと言ったご様子、風が冷たい瞬間はまだまだあるけれど、昼間の陽気はもう当たり前の顔をしてそこにいる。

 

東海随一と地方情報誌で評されていた名所に、二週連続でお花見に足を運んでいる。足、と言ってもこの町は完全な車社会なので、もちろん自動車で向かう。桜を見ながら甘いピンクのお酒でも、とはいかないのが少しだけ悲しい。

先週は、今まさに咲かんとす、と再読文字の句形を覚えたての高校生のようなことを言いたくなるような開花状況で、花見客だけを数えるなら閑散としていたのだが、今日は八分咲きくらいには開花していて、屋台が出るわ和太鼓が鳴るわ大道芸芸人がいるわ戦国武将が記念撮影会をしているわ、とお祭り騒ぎになっていた。桜が主役でなくなっているのが腑に落ちないな、と思いながらも恋人にクレープとたこ焼きを買ってもらって、心もお口もほくほく、粉もん最高。花は言うまでもなく最高。

今日訪れた公園からは、私の職場の裏手まで川沿いに桜並木が続いているので、仕事の休憩時間にも毎日のように一人で花見をしにふらふらと出かけている。散り切ってしまうまで、あと何回お花見できるかしら。

 

帰り道の車内で、流れているCDの曲名に興奮気味に言及し続ける彼に、「こうやって会うのはやめない?」と言う。それだけですべて察してくれるところは嫌いじゃなかった。彼の返事は「ありがとう」の一言だった、今までの楽しかったことを思い出してそう言ったらしい。聞き分けと諦めの良すぎるところはあんまり好きじゃなかった。

 

平成の次の元号は何か、とみんなが騒いでいる。彼も騒いでいたし、今朝も持論を話してくれた。聞いたこともない、斬新で明るくてふんわりとした説だった。明日、新元号が発表されれば、その予想が当たっていたかどうかははっきりするけれど、正解だったかどうかは誰にも話さず、私と彼だけの秘密にしておこう。

この、平成が終わることは分かっているのに次の元号が分からない、という宙ぶらりんな状態がずっと続けばいいのに、とずっと思っていた。そうすれば曖昧なまま継続できていたのかもしれないな。時代のせいにする悪いやつ。

 

今日中に書かなければ、この話題の鮮度が失われてしまう。近頃、何もかも展開が早くて置いていかれがちなので、なんとか滑り込みたい、との一心でここまで書いた。

 

私、間に合えてる?

 

 

 

愚にもつかぬギ

  引っ越しも一段落つき、色々な環境も整い、新しい場所での暮らしの基盤が順調に構築されつつあります。故郷に残してきたものは様々ある、ありすぎるけれど、ここに”故郷”という言葉が登場すること自体に、自分はしばらく地元に帰るつもりがないんだな、とか、あそこは故郷と呼ぶにふさわしくお誂え向きの街であまりにも陳腐に過ぎる、とか、帰りたいあそこへ行きたいあの人に会いたい、とかグルグルしてきてしまうので、わざと目を逸らし続けている。直視できる時がいつか来るのかしら。

 

 最近、「自分の中の思いを消化する」という言葉を無意識のうちに、さらには頻繁に使ってしまう。本当に無意識で、何か印象的な出来事があってそれを幾日も引きずっているようなときには決まってこの言葉が脳裏に浮かび、いつの間にかTwitterで発露している。何しろ友人が少ないもので。いつもお目汚し頂き、ありがとうございます。

 消化するということは、受け取った何かを自分の力で分解し自らの血肉としエネルギーとしていく、ということなのだろうけれど、今までの、と言っても自我が芽生え始めたのがごく最近なので、ここ一年ほどの中で、これは確実に消化できた、と言えるものに心当たりがない。

 けれども、哀れな生き物であり続けるには、私はあまりにも擦れすぎてしまった、たくましく生きていくための術を身に付けてしまった。草を食む速度が追い付かないのならば、餓死を迎えるまでに腹を空かせた肉食獣の目の前に飛び出たり、あるいは恐る恐る虫や果物を口にしてみたり、という方法を知ってしまった。

  哀れみすらこの身に受けることはできない。あるのは軽蔑と焦燥と羨望の眼差しだけ、どれも私に直に触れてはくれない。

  

 

 思い出したように前回の続きに戻る。前回、とはこちらの記事のこと。

no-koriga.hatenablog.com

 

・等速直線運動のできるあなた

 「気が合わないな、って思うのはどんな人?」と尋ねられた。私の答えは確か「相槌の打ち方に腹が立つ人」だった。問うた本人は「ボディタッチの多い人、やたらと積極的な人、海辺でBBQをするような人、それから……」と例を挙げていたように思う。もうだいぶん前のことなので記憶が曖昧であるし、その内容に是非を唱える義理はない。

 思い返せば、この人とは気が合わないなー、となった経験がほとんどない。ほとんど、に入れてもらえない可哀そうな人は今の恋人、ああなんて可哀そうな人。なんて、冗談だけれども。どこからどこまでが真実なのかは読んでいる人が決めることなんですよ。ボディタッチの多い人も、やたらと何事にも積極的な人も、海辺でBBQしたがるような人も、すぐに中指を立てる人も、みんな分かりやすくて良いじゃない。何が好きでどうすれば喜んでくれるのか、私に見せたい面はどんなものなのか、分からせてくれる。私はもっと、複雑で繊細で深くて怖くて美しくてこちらが戸惑うような人が好きなんです。あれ、前述の人、みんなと合わない。分かりやすく馬鹿な私、自分とも気が合わないこともあるんだな。

 

・罪とは罰とは

  皆さんの言う、鬱とは?虚無とは?オタクとは?

 どれも医学的辞書的文化的背景などをそれぞれに持つ言葉であることは充分に承知しているし、言わんとすることも大方は分かるのだけれど、皆さんがあまりにも”我々に共通の免罪符である”かのごとくおっしゃるので、恐ろしくなってきた。私ったら義務教育で飛び級してしまったかしら、私の知らないテキストでも配布されたのかしら、ママのお腹の中に置いてきてしまったの、ママは私よ、あなたは誰、私は…

 ただ純粋に、前述のもの以外にも、皆さんの心の中にある言葉の定義を教えて頂きたい、という気持ちでいっぱいなのです。これは本当に混じり気のない好奇心。純度100%の気持ちを向けられたあなたは、この問いに答えるしかない。「あなたのその言葉には、どのような意味が込められているのですか?」

 ちなみに、私の言う”虚無”とは「持て余した感情を注ぐ先のないこと」です。

 

 ・水中花

 これが愛だあれが愛だたぶん愛だと騒いではいるけれど、きっとそのどれもが愛で、かつどれも愛ではなかったんだろう。

 これはただ思いついただけ、言いたかっただけの言葉です。口説き文句に使いたかったら使ってもいいよ。

 

 

生身のひつじはアンドロイドスマートフォンのユーザーか?-はい、そうです

 

 ここ一ヶ月程の間に、仕事を辞めただとか新居を決めただとか、様々な環境の変化があったのだけれど、それ以上に内的に衝撃を受けたり変化したりしたことが多かった。それに伴って、私の考えていたことを忘れないために、ここに書き留めておこうと思う。

 
 
・ひねる相手は生まれるか
 
 私が新しい仕事をするにあたって遠方で一人暮らしを始めるので、母が大変に寂しがっている。対外的にはしっかりしている25歳にもなる娘にこの態度とは子離れができていないんだな、とも思うが、子として愛されているのはとても嬉しいし、母のことは人間としてかなり好きなので、仕事を辞めて時間ができてからは二人でどこかに出掛けるという機会を多く設けた
 その外出の中で、私に恋人がいるということが母に知れた。隠していた訳ではなく聞かれなかったので言わなかっただけで、彼女に話せるような後ろめたいことは何もないのだけれど、私と相手が結婚適齢期と言われる年齢ということもあって結婚や孫を意識した発言を母がよくするようになったのが、実に心苦しい。今の恋人との結婚を私は現段階であまり考えていない上、子どもが欲しいとは思わないし体質的にも妊娠は難しいのだけれど今の母の唯一の楽しみとなっていそうな話題なので避けることができずにいた。それでも子どもを産むつもりはないよ、と遠回しに言い続けていたところ、「そう…。」と悲しそうに言い、それきりその話題は持ち出さなくなった。
 愛する母に悲しい思いをさせてしまいそれはこれからも続くのだという罪悪感と、この思いは変えられないものだという予感とがごちゃ混ぜになって、心が自家製のストロベリーヨーグルトみたいになった。あれね、明治ブルガリアヨーグルトにアオハタ苺ジャムを入れてスプーンでぐるぐるしたやつ。まだらなヨーグルトは大好きだけれど、心は一色であってほしい、それが暗い色でも明るい色でも。
 子どもを産みたくはないけれども、どうせなら自分と同じ顔・性格の赤子を7人くらい産んで自分をたくさんに増やしたいな、とは思う。きっと、8人の8に埋め尽くされる世界はきっと、悪くはない。
 
 
 

・”私”と”秋”が似ているとも言いたかった

 

  以下2つは私のツイートです。

 

  これらに対するものとして、

 

  言語化するというのは個人の経験に基づく暗黙知形式知として共有できる最低限のレベルに落とし込むだけで細部は全く共有できない気がする これがさっきのツイートの正確な言語化です

 

 と頂いた。

 言語化する、というのは何かの思想を持った対人コミュニケーションの中ではたぶんおそらく蓋し大切なことで、私はそれに強く強く苦手意識を持っている。元々あまり頭が良くないのもあり、すべての物事の捉え方があやふやで、輪郭をはっきりとさせないまま自分の中に保存しているのではないかと思う。時間のあるときにそっと取り出してしげしげと眺め少し磨いて元の場所に戻す、というのを繰り返すタイプなのだと思う。

 さらに、短くは言い表しにくい概念についての自らの中で完結している造語もすごく多い。「みゆきちゃん」はこの世で一番大好きな女の子の名前だ。

 だから、いざそれらを人前で取り出そうとしたときに「えっと、これはこの人に通じる言葉だとどう言えば良いのだろう…」と逡巡してしまったり、たとえ造語でなくても、自分の思っていることをできるだけ余すところなく伝えたい、と思うあまり相手が求めている以上に一つの話題について話し過ぎてしまったりすることもある。

 ただ、これらの傾向は今のところ必ずしも悪い方に作用するというわけではなく、"余白のある言葉”が好きだという方には「けっこう上手に(そういう言葉遣いや言い回しが)できているよ」と言われたし、話す前に考え込むのを見て、誠実な態度で誠実な内容を話す人物だと私を受け取ってくれる方もいた。しかし、前者については「私が目指すはもっと素敵なものなので、この人はこんなもんなんだと妥協・納得しないでください。」、後者には「考えこんでいるからと言って必ずしも本心を話しているとは限りません、私は誠実であるのと同じくらい飽きっぽいのです、口に出したそれは考えるのに飽きてコンマ数秒で思いついた全くの虚構かもしれないのですよ。」と言わせて頂きたい。私はけっこう色々な味のする人間だと自負しております。

 話を戻せば、自分の中にあるものが全てあやふやであるがために、外部からその内容に近いものを、それが詩でも歌詞でも評論でも愛をささやく言葉でも呪詛でも、何かを与えられれば、「これは私の考えていたことだ!」と自分の中のアメーバ状のものを枠に嵌めてその形にしてしまっているんだ、と気が付いた。形を変えるときにそぎ落とされてしまったのが、件のツイートの「細部」にあたるのだと思う。「細部」の存在にすら気が付けていなかった私は愚者だ、今もたいがい、愚かな側の岸に立っている。川を渡るためにはいったい幾らかかるのだろう、六文では到底足りない。

 

 

 

 存外長くなってしまったので、残りのテーマについては次の機会に、また。

 

 

 

 2019.2.26 追記 続きを書きました。

no-koriga.hatenablog.com

 

 

 

全国平均は4.82本

 彼と付き合い始めて今日で2カ月と10日が経った。

 私の恋人はムカデだ。

 

 「彼氏ができたの。」
お父さんの出張中、夕飯の支度を手伝いながらお母さんに、こっそり彼のことを打ち明けると、
 「昆虫とか甲殻類とか、足がいっぱいある相手だといろいろ大変よ~。」
と、いとも事も無げに、肯定とも否定とも取れない答えが返ってきた。もっと驚いたり、喜んだりしてくれるかと思ったのに。

 

 昨日お母さんにあなたのことを言ったらね、と足の数にまつわる難しさを彼に伝えたところ、彼は
 「あははは、お母さんは面白い人なんだね。今度、皆でおしゃべりしに、君の家に行ってもいい? そうしようよ。」
 と言い、彼からの申し出を断れない私は、ちゃっかり次のデートの約束を取り付けられた。しかも、家に来るらしい。


 お母さんはウォンバットだから足が4本で平均的だし、哺乳類だし、別にいいんだけど、約束した日は鋼曜日だからお父さんも家にいる日だ、お父さんも彼に見られてしまう。どうしよう。足の数の話なんか、彼にするんじゃなかった。ただでさえ、私は2本しかない人間なんだから、足の多い生き物の気持ちなんか分かるはずがないのに。

 

 そんなことを思案しながら、彼と別れて家へ帰ると、ウニの父が、キャベツを食べながらテレビを見ていた。一体どれが足なんだろう。夕飯の時にでも聞いてみよう。

 

 

NAKAMAWAREの中にはWAKAREがありますか

 最近、あらゆる"別れ"についてよく考える。

 その理由は簡単で、仕事の都合で2月に初めて、生まれ育った関西を離れ、別の地方のどこかで一人暮らしを始めるからだ。まだ具体的な街の名前は決まってはいないのだけれど、大きく環境が変わることは間違いなくて、不安がむくむくと順調に育ってきているし、もはや蔓延っていると言っても過言ではない状態にまでなっている。
 この引っ越しは昨年の9月にはすでに予告されていたので、時間的にも余裕はあったし、心の準備は十分にできていたつもりだった。


 話は少し変わるけれど、私の性格には”生活には常に変化がないと耐えられない”という大きな特徴がある。毎日同じ時間に同じ場所に通う、というのが本当に苦手で、学生としての生活はとても辛かったし、今の仕事も場所はともかく、時間の不規則性は大きいものを選んだ。


 だから昨年、もっと変化と刺激がほしい、と色々な人と出会い続けていた時期があった。変化と刺激を求めるのにこの方法が最適だったとは思わないけれど、この時期はこれしかできなかったので許されたいとは思う。
 現代はインターネットを使えば簡単に出会いが作れるので、こういう時にとても便利だ。連絡先を書いた怪文書を、公衆トイレのドアに貼ったり雑誌の読者コーナーに投稿したりデパートの屋上からばらまいたりしなくて済む。
 そこでの出会いが良かったのか悪かったのかは未だに自分でも判断しかねているけれど、おおむね楽しかったし大方の皆のことをだいたい好きになれたので、きっと「これで良かった」と思い込む日もいつか来るのだと思う。ほとんどに該当しない人のことは大好きになった。2019年を迎えた今、交流は並べて消えた。


 そこで”別れ”の話に戻る。
 人間関係に限らず、色々なものと別れをしなければならない状況に追い込まれて、ひとつひとつ、どういう別れを演出すれば満足できるかな、と考えている。
 演出を考える時間があるという点で、自分は良い状況だなとも思うけれども、考えている間に鬱々としてくる対象もあるので、一長一短ではある。でも唐突な別れは嫌だし、今までそのように考えての別れを経験したことがないこともあって、期せず生活への良い刺激になっている。
 泣きすがってやろうか、笑って手を振ろうか、相手が眠っている間に置き手紙を残しておこうか、旅先で相手のために選んだ文庫本に一輪の花を添えて置こうか、それとも相手が気が付かないうちに私の存在の痕跡をすべて消しておこうか。どれも自己満足にしか過ぎないのだけれど。


 明日は職場の方達との送別会があるので、とりあえず涙の一つでも見せてやろうかと意気込んでいる。

年の瀬のとりとめのない話

12月29日(土)

大学の友人2人と一緒に食事へ行った。

私は学生の頃と同じように、財布とスマホだけをポケットに入れてふらふらと出掛けて行ったのだけれど、2人とも「旅行に行ったから」「これ8ちゃんに似合うと思ったから」と手土産を用意してくれていて、成長できていないのは私だけなのか、と出会って早々に少し寂しく思ってしまった。けれど、「私に似合うと思って」と選んでくれたハンカチはめちゃくちゃな色遣いと模様で、めちゃくちゃな色遣いと模様の服装でしか外に出られなかった大学生だった私の印象は変わっていないんだ、とも感じた。変わらないものの存在を確認する。

魚と日本酒の美味しいお店で、まだ明るい時間から、魚と日本酒をたらふく食べて飲んだ。手から海の匂い、嫌な方の海の匂い、朝の潮騒の軽やかで爽やかな気配ではなく、昼過ぎの磯の粘着質で重い想い。海のある地域に住んだことがないので、これは全て妄想、妄想の海。知らんけど。

店を出て、ひたすらに歩く。甘くて温かいものが食べたいな、というリクエストに応えて、都会のティーショップでケーキと紅茶とアイスクリームを食べて飲んで食べた。甘いものは良い。心も甘くなる。甘くなった舌と心で、友達を口説こうとしたら断られた。

もう少しお酒を、ということで、またひたすらに歩いてオフィス街のパブへ。結婚についての考え方について話す。このブログに書いた私の考えを見せると、2人は内容については全く言及せずに、ただただ文章を褒めてくれた。この人達は学生時代からずっと、私の文章を褒めてくれる。満点の答案用紙を見せたときのお母さんより、褒めてくれる。ありがたい礼賛。

終電車の時間がきたので、また春休みにね、と言い合いながら友人達と別れた。全員が教育に関わる仕事をしているので、予定の合うお休みが学校の長期休暇と重なることが多く、「次は春休みor夏休みor冬休みにまた会おうね!」といつも言っている気がする。可愛い3人組だな。

 

 

12月30日(日)

一緒に岩盤浴に行こう、と約束していた後輩から、「急遽彼氏と会えることになったのでごめんなさい!」と言って当日の朝に断られた。愛に生きている。彼女が浮気をしていることも知っているけれど、何の話をしても結局は彼氏との惚気話になるので、愛なのかな、といつも思っている。私も愛に生きていたい。「愛には救いが無い、救いが無いのが愛」という話をフォロワーとしたのを思い出した。愛について考え続けていた下半期だったな、とも思う。

後輩と行く予定だったスーパー銭湯に、母と行った。母が「最近なんだか気持ちが鬱々としている。うつ病なのかもしれない。」と言い始めたので、少しでも気持ちを晴らしてほしい、と思いながら母に車を運転してもらった。私は筋金入りのペーパードライバー。

岩盤浴は良いものだった。体を温めるのは無条件に良いこと。


温まった体を布団に横たえ、さあ眠ろうとしたときに気が付いた。

ぬいぐるみのお尻から綿がはみ出している。

自分でも驚くほどにうろたえてしまい、少し泣いてしまいもした。お気に入りの羊のぬいぐるみで、ここ数年ずっと抱きしめて眠っていたのに、私は、私は。

うろたえぶりがよく分かる、私のツイート群。

 

 

12月31日(月)

羊くんに対して、「君のお尻に穴が空いて綿が少しはみ出てしまっても、可愛くて愛しい存在には変わりがないし、このまま一緒に眠り続けて徐々に摩耗していこうね」という気持ちに切り替わった。自分の手で直そう、という気持ちにはならない、なぜだろう。”ずっと”という言葉が信じられないからかもしれない。来年こそ、その言葉を信じられるようになって、色々な人の愛にもう少し応じてあげられるようになっているのかもしれない、そうなりたい。あと4時間と少しで、2018年が終わって来年になりますが。

 

”冷え”に由来するあれこれ

両足で7000円の、足首ウォーマーを買った。

片足でも3500円。普段履きの靴よりも断然お高い。

経済的にものすごく余裕のある生活をしているわけではないのだけれど、これくらいの贅沢は許されるくらいには働いていると信じたい。

 

私の働いている店で毎冬に販売される商品の、今年限定のペイズリー柄

これだけでも、買い物だけを楽しみに生きる一部の人にはとっても魅力的に聞こえるだろうけれど、私が購入したのには他に理由が3つある。おおまかに言えば全部”冷え”に由来するものではあるのだけれど。

 

一つ目。

母から「体毛が濃くなるのは、体が冷えているかららしいよ。」と言われたこと。

前々から私の母は、私の体のあらゆる”毛”に関して、なぜか手厳しかった。

少しでも露出の多い服装をして出掛けようとすれば、「行ってらっしゃい」の前に「ムダ毛の処理はちゃんとした?」と尋ねるし、ド天然パーマの私の毛髪を触っては「髪の毛がお父さんに似てしまってかわいそうに…」と嘆くしで、母の”毛”に関する発言には慣れていたのだけれど、最近遂にいっぱしの恋する人間になった私は、濃さに言及されてドキッとした。ので、少しでも体を温めようかな、と考えた。

 

二つ目。

2カ月後から、仕事の都合で地方に引っ越し一人暮らしをすることが決まっている。”地方”と書くと、今は首都に住んでいるのか、と思われそうだが、決してそうではなくて、現在と比較して田舎になるんだろうなーという曖昧な推測に基づいているので、あまり気にしないでほしい。今住んでいる出身地も、よく「底冷えする」と評される地域ではあるけれど、豪雪地帯に比べればぬるま湯のように感じる程度だろうと思うので、予想される寒さへの対策として少しでも良い防寒具を揃えておきたいな、と考えた。

 

三つ目。

ここまで書いている間に忘れた。

けれども、さっそく足首ウォーマーを装着して書いているので、足元はぽかぽか。

ぬくぬくハッピー。